無差別殺人を計画していたらユダヤの陰謀論を追うハメになった件(1/3)

今自分はユダヤ陰謀論を追いかけているのだけれど、どのような人生でそうなったのか、というのを今回はまとめたい。

 

世の中的には無差別殺人なんて事を考える人間は異常者で、その考え方は理解できないものであるらしい。でも自分はこちら側の人間であり、自分には世間の人々の考え方が分からなかった。

 

私は無差別殺人を実行したいと考えている。
日本社会は私を攻撃する敵であり、そこに生きる人々を滅亡させない限り、私の幸せは決して訪れないと信じている。
けれども迷いがある。
どこかのカルト宗教が「我々は洗脳されている」と言っていたが、それが事実であるかもしれない、という迷いだ。
それは勘違いで、日本人は洗脳されていないかもしれない。もしそうならここで迷った事は無駄であり、やはり私は無差別殺人に踏み切るべきなのだ。
しかし勘違いではなく、日本人を洗脳する何者かがいて、日本人同士がいがみ合い、殺しあうように仕向けているとしたら。私は何者かの思うままに日本人を殺し、死刑になる事になる。これはちょっと面白くない。どうせ死ぬならきちんと復讐を果たしたい。
しかし調べれば調べるほど、反撃すれば日本人が死に、何もしなければ自分や自分と同じのような日本人が苦しんで死ぬ、という計画が進んでいるように見えるのだ。 

 

無差別殺人を考えるアブナイ人ということで精神病院に放り込まれたりいろいろしたわけなのだけれども、自分が体験したこと、自分が調べたことを話していくと、どうも「世論を動かすべき」という意見を耳にする。「仲間を作るべき」とも。それが何なのか、何か意味を持つものなのかはわからないけれども、自分が経験したこと、自分の考え、自分の知識について文章化してみることにした。この長文を読む人が誰かいるのかはわからないけれど、もしこの文章に何らかの価値があると思うなら他の人に紹介してほしい。世論が動くことになるのかどうか、正直わからないけれど、結果的に何かプラスの結果を生み出せるなら意味があるのだろう。もしこの文章を読んだ人が、今の社会よりも私が言っていることの方が正しいと判断したなら・・・その時は、あるいは、無差別殺人を実行する意味が失われるのかもしれない。
それに、この国では犯人の生の言葉は人々には伝わらない。警察やマスコミを通じて歪められた情報のみが伝えらる。もし本当の動機を後世の人々に残そうと考えたら、それは無差別殺人の実行前に公開しなければならない。だから、自分の考えを文章化することには意味があるだろうと考えたからだ。

 

そんな訳で、何かが起こる事を期待して情報を提供する。頭の体操がわりに付き合ってもらえれば幸いである。

 

大きく3つの内容になる。
1つ目は私の人生と考えている事。つまり「何故無差別殺人をしようと考えているのか」について。普通の人間には、これがわからないのであろうから。陰謀論の話を知りたい人は退屈だろうから飛ばしてもらっても構わない。その前段階だから。
2つ目は日本の教育の矛盾について。本来存在していなければならないものが存在していない。
3つ目は、自分が社会を滅ぼすべきであるという考えに至った判断に、ユダヤ陰謀論(の一部)が関わっているかもしれない事について。この内容は正直自分でも半信半疑だし、証拠がそろっている訳ではないけれど、集めた資料に矛盾は無いし、おおむねそこから推測出来る事が今世界で起きている、ように見える。そしてそれは、自分が、そして日本人が(正確には他の国の人々も)攻撃される理由にもなるのだ。

 

まずは異常者である自分の人生から語ろう。

 

他人の死を望む人間という生き物

 

自分と普通と呼ばれる人々はどうも考え方が違う、ということはわかっている。でも自分の何が間違っているのかは正直わからない。自分には普通の人々はありもしない妄想を抱いていて、同じ妄想を持てない人間を異常者として排除しようとしているように見えるのだ。

 

なぜ世間一般の人は普通でありたいと願うのだろう? 世界的な発見や芸術作品を作った歴史的人物は普通などではなかったはずだ。

 

なぜ常識というのを崇拝するのだろう? 江戸時代の常識が今通用するだろうか? 明治は? 戦前は? 高度経済成長期の常識は? そんなあやふやなものをなぜ正しいと考えるのだろう?

 

なぜ道徳なんてものを信じるのだろう? 道徳の内容を網羅した辞書があるだろうか? 他人が信じる道徳と自分が考えている道徳が同じである保証がどこにあるのか? 道徳を見たことがあるか? 写真がある分、UFOとかの方がまだ信じられるんじゃないの?

 

なぜ法律が正しいと考えるのだろう? 科学的に正しいと証明された訳じゃない。政治家たちは法律を悪用して私腹を肥やし、企業は自分の利益のために他人を犯罪者扱いするための立法を推進しているばかりじゃないか。人々から徴収した税金は一部の人の贅沢に流れ、足りない足りないと更なる増税を進めるだけだ。

 

なぜ科学的に証明されていない善悪などというものを絶対的なものと信じるのだろう? それは教祖様の言うことが絶対という狂信者と同じじゃないか。この宇宙を支配しているのは、人間が勝手に決めた善悪なんかじゃなく、原因と結果の関係であるはずだ。

 

なぜ誰も疑わないのだろう?

 

なぜ人を殺してはいけないのだろう?

 

もし本当に神様が存在して、殺人が許されないことなのだとしたら、それを実行できないように人間をお創りになられるはずだ。神など存在しないとしたら・・・この世にある正義とか善悪というのは、いったい何を根拠にしているのだろう? 善悪とは宗教から発達した考え方のはずだ。神を信じず、科学も信じないとするのなら、「普通の人々」は、一体何を信じているのだろう?

 

こうした事が子供の頃からわからなかった。

 

なぜ人を殺してはいけないのか。

親に聞いても「そんなの当たり前だ」と言われ、あるいは「他人を殺すと死刑になるから」などという説明だったが、自分には納得出来なかった。自分と同じように考え、実際に無差別殺人を起こす人間は存在して、マスコミを賑わせた。「なぜ人を殺してはならないのかがわからない」という犯人に対して、コメンテーターや知識人達は「理解できない」と口をそろえた。

でも自分には、人間という生き物は他の人間の死を望む生き物にしか見えなかった。社会は公害・薬害によって他人の命を脅かしたり、過労死する労働者に何らの手も差し伸べず、外国に目を向ければアメリカとソビエト核兵器を突きつけあっている。交差点での巻き込み事故死はなくならないのに、車と歩行者の信号が同時に青にならないような工夫もしない。技術的には可能であるはずなのだ。
子供が子供を殺すような犯罪が起きて、犯人は「なぜ人を殺してはならないのかがわからない」と口にするようなこともあった。そのような人間に対しては、世間は「死刑にすべきだ」と口をそろえる。
子供心にちょっと周りを見渡しただけでも、とても人間という生き物は他の人間の命を大切にするような生き物には見えなかった。

 

そして何より、子供のころの自分の周りには「死ね」と言ってくる子供ばかりがいた。

 

いつから、なぜ、そうなったのかはわからない。はじめは子供にありがちなバカなどの悪口だったように思う。しかしいつしか自分の言葉は無視され、「お前の触るところは腐る」などと言われるようになり、他人の机などに触れば殴る蹴るを受けるようになっていた。

後に自分以外の人間が同じような目にあっているのを見る限り、それは障害者にたいして行われるものだった。そして自分は生まれつき心臓病だった。
社会や先生は障害者は助け合うものと口にしてはいたけれど、そのようなことは実際は起きていない。

道徳では、力で勝てないなら頭脳で勝ち見返してやればいじめられなくなる、ということになっていた。しかし、例えばテストで、普通の人が1つのテストを説く間に2つのテストを両方100点で終えるレベルになってさえ、何も変わったりはしなかった。

先生に頼れば何かが解決するかと言えばそのような事も無かった。親に助けを求めればお前が悪いのだろうと突っぱねられた。

この国の正義は民主主義だそうだが、みんなのために、という言葉は自分の意見をつぶすために使われるものだった。

 

人は人を殺したがる。これは純粋に自分の目の前で発生した事実だ。

人を殺してはならない、という言葉を言う人がいたとしても、それは現実とはマッチしない。ただの妄言だ。

少なくとも、自分が見た人間は、他人の死を望む生き物である。

そして道徳も意味をなさず、多数決は他人の死を望む人々の意思を肯定するために使われる。

 

死ぬようののしられ、暴力を振るわれる日々から逃げるために自殺するか、あるいは殺人は悪であるという現実離れした考えを捨て、生きるために相手を殺すのか・・・これが多分、無差別殺人を考えた人生で最初のタイミングだった。最終的に他人のために死ぬより、他人を殺してでも生きる側を選んだ。生きるために必要であれば他人を殺す。たとえそれが友人であれ、親であれ。それが生きるという選択、生きるということそのものである。
人を殺してはならない理由に「自分が殺されたら嫌でしょう?」というのがあるけれど、殺されるくらいなら殺してやる、というだけの話だ。

私は普通で無い人間を迫害する、普通という名の選民思想を破壊するために、自殺という逃亡ではなく、殺人鬼という戦士として生きる。これが自分がいじめを受けた結果として、自分が選び取った思想、人生である。

 

つまり、他人を殺そうと思う、ごくありふれた「人間」なのだ。

 

社会や道徳が正義であるという考え、人の心と呼ばれるらしきものはこの時に捨てた。現実に合わないくだらない妄想に付き合っていては命を維持できない。この社会の正義とは、私の命を奪いにくるものだから。
もう一つの理由は、いじめを行う人間を殺していけば、いつかはいじめを駆逐することができる、という事実である。もちろん社会は普通の人々を守るわけだから軍隊を相手にすることになるし、素人が戦いを挑んで勝てるのかという問題はある。また、いじめを行う人間を駆逐した結果、地球上で生き残る人間が自分だけ、という可能性もある。それでも普通の人々を力づくで絶滅させるというのは、「暴力では何も解決しない」などという言葉よりよほど信頼できる未来である。なんの結果ももたらさない、非暴力の社会的正義など、問題に立ち向かうための障壁でしかなかった。生きるという選択をするには、どうしても、未来は今よりもよくなるという希望が必要であり、その根拠となる道筋が必要なのだ。

 

私は普通の人々が信じる正義を認めない。
現実に何の効果ももたらさない道徳などというものに耳を貸すことなどない。
それらを滅ぼすことこそが、私の命そのものである。

 

それでもその時は実行まで踏み込まなかった。

周りの人間は子供だから社会の正義を実現できないだけ、という可能性もある。だから一旦は観察者となることにした。普通で無い人間を迫害し、踏みにじるのは未熟な子どもだからである、ということであれば、それは教育の問題であって社会や人間の問題ではない。しかし大人もそうであるというのなら、この社会こそが私の滅ぼすべき敵であり、あるいは人間という生き物こそが自分が滅ぼすべき敵である、ということになる。
障害者として生まれたものは自殺に追い込まれなければならないというなら、そのような社会は私の手で滅ぼしたいのだ。これから先に生まれてくる普通ではない人々のためにも。

 

いわゆる社会的正義を捨てるのと同様に、命を維持することに役立ったものがTVゲームだった。田舎の遊びと言えば複数人で身体を動かす、鬼ごっこなどをはじめとしたものだが、普通でない者への迫害が始まってからは他の人々と共にある事は苦しみでしかなく、迫害が発生する前でも心臓病であるために楽しみを得ることは出来なかった。しかし一人で遊べるゲームであれば楽しみを得ることが出来る。

貧乏な家庭に生まれたので、多くのゲームを買ってもらえるわけではなく、既に飽きているゲームをやり続けることになった。新しい物好きの父親が買ってきたものだ。それは必ずしも面白いものではなかったけれど、少なくともゲームをやっている時間だけは苦しみを忘れることができた。生き続ければもっと楽しいものに出会えるかもしれないという希望も持てた。

ゲームは普通でない体で生まれた人にも楽しみを与えることができる。たとえ世界で誰も味方になってくれなくとも、苦しみから身を守る時間を稼ぐことができ、未来への希望を持つことができる。

このゲームというものは、社会の正義と相反するものであるらしかった。ゲームには意味がない、健全な教育に悪影響である、と言われていた。だからこそ、むしろ自分にとっていとおしいものとなった。

 

こうして人生で2つの目標を持つことになった。1つはゲームクリエイターを目指す道。もう1つは普通という選民思想を持った人々に復讐する道。もっとも後者は普通でない人間への迫害が再度起きなければ不要なのだけれど。

自分の人生は、ゲームクリエイターという、普通でない人間を迫害から守る盾となること、あるいは普通でない人間を迫害するものを滅ぼす剣となること、ということになる。どちらになるかは、普通でない人間に対する迫害が子供たちに限定のものであるか、そうでないかによって決まる。

 

こうして自分の人生、命は、他人への殺意と憎しみによって支えらることとなった。しかし観測者を続けていくうち、別の感情も生まれることになる。今まで無差別殺人を実行していなかったのは、ここで生まれた「社会的正義に服従することによって平等を実現する」というブレーキがあったからであり、今無差別殺人を実行しようと考えるのは、このブレーキが社会によって破壊されたからである。

 

オタクとの出会いによる「社会的正義への服従」とその破壊

 

自分が憎しみや殺意とは異なる感情を持ったのはオタクと呼ばれる人たちに出会ったからだ。漫画やアニメの女の子を好きだと言い、少女コミックを買いに走る姿は奇妙で異常にも見えたが、それまで見てきた「普通の人々」とはあまりに異なっていたために歩調を合わせてみることにした。ゲームクリエイターを目指すのにオタクの人々は近い存在だったし、仮に自分も二次元の女の子に恋することになったとしても、それは人間ではないので復讐することになった場合でも、何の障害にもならないからだ。

 

そうしてオタクと呼ばれる人々と行動を共にしているうち、オタクの先輩に「〇月×日にここに集まること」と指示を受けた。何の前情報もなく指定された場所に行くと、そこは同人イベントだった。知らない人のために言うと、アマチュア漫画家が自費出版した本を展示し販売するイベントになる。あくまでファン活動ということで、特別許可を取らずに既存のアニメや漫画のキャラクターを描いていたりもする。
そしてこのイベントには普通でない人々を排除する壁がなかった。いわゆる18禁と呼ばれる性的表現はもちろん、同性愛や近親相姦のような社会的に忌避される表現さえ、同人イベントでは肩を並べて展示されている。そこに迫害は存在しない。

 

これはどうも、「表現の自由」というのを正義としている集団であるらしかった。確かに民主主義の正義はそうだ。そして日本は民主主義の国だ。表現の自由、そして平等。オタクと呼ばれる人々は、どうもそれを実践している人々であるようだ。いつしか自分はその文化に夢中になった。

 

これがおそらく、自分にとって人生で初めて、普通の人々を滅ぼすこと以外の希望が生まれたタイミングだと思う。

同人オタクと呼ばれる人々は、民主主義の思想と、障害者など普通ではない人々とも平等に接するという、社会が「正しい」と口にする思想を体現する存在である。

 

それでも社会はオタクと呼ばれる人々に敵対であった。マスコミはオタクが犯罪予備軍と呼び、政治家たちは同人誌を有害なものとして排除しようとした。「いじめは悪」「障害者は助け合わなければならない」「日本は民主主義の国である」と口にしながら、一方で普通でない人間として生まれてきた人間の安住の地を脅かすのが、この国の正義であった。

 

なぜ同人文化のオタク達は、社会から悪とののしられながら、民主主義や障害者を含めた平等という社会の正義を実現しているのか?

同人文化の中心はどのようなものかを知りたくなり、同人文化の頂点ともいうべきコミックマーケットに親戚を頼りながら行った。その時、オタク達の敵、同人文化を脅かす存在を知る。それが児童ポルノ法だった。

 

本来ポルノに出演させられた少女を守るため、という名目の法律であったが、同人誌が児童ポルノにあたるというように拡大解釈され、アマチュア漫画家への弾圧、ひいては同人文化そのものへの攻撃となっていた。

 

コミックマーケットの代表であった米澤代表は、政治家達と対立しながら表現の自由のために戦った。児童ポルノロリコンという表現もまた異常者のものだ。それを守るために行動する代表者の姿は、やはり自分にとって奇妙であり興味を抱くものであった。尊敬もする一方で、社会への不信は高まる。なぜ障害者を救おうと口にする一方で、異端者に居場所をあたえ守ろうとする人間たちを攻撃するのか。

 

異常者として生まれた自分にとって、それを迫害する社会の正義を養護すべき理由はない。日本の社会は普通でない心身を持って生まれた人間を迫害する敵であり、その社会を正義と信じる人々もまた敵なのだ。オタクと呼ばれる人々と科学を除いて。

一方で米澤代表はそのような社会との共存をオタクたちに強く訴えた。他人に迷惑をかけるな、ルールに服従しろ、社会に対してオタクは悪と呼ばせる口実を作るな、と。暴力に訴えてはならない、それでは相手の思うつぼだ、と、弁護士などと共に訴えた。

 

結局米澤代表の判断は(本心はわからないが)、児童ポルノ法に関して実写に関しては実在の児童の問題であるから規制を受け入れ、マンガに関しては規制の対象外とする、という形で合意することだった。

こうした非暴力、社会的正義に対する服従の姿勢に対して、自分の中では不満と不安はあったが、いったん受け入れることにした。自分の主張は迫害者を殺さない限り迫害は止まらない、というものであるが、同人文化が異常者たちに居場所を与え、笑顔を供給していたことは事実であるから、実績がある以上、その人物の言には聞くべきものがあるという判断をした。

 

この時に感じた不安は、5年以上後に的中することになる。

 


オタクという奇妙な生き物との出会いと同じころに、インターネットというものに触れた。まだパソコン通信を行っていたオタク達がそのまま移行したということもあってか、インターネットは同人文化との親和性が高かった。

 

変わった表現者を探していくうち、「自分は妊婦フェチだ」と名乗る人を見つけた。心臓病として生まれ、いじめを受けてきた自分としては、自分は異常者だと名乗ることは自殺行為だと考えていた。しかし彼がどうなっていくのか見ていると、同じような迫害には合わなかった。それどころかたくさん同じような仲間たちが世界中から集まり始めた。

 

なぜそうなるのか?同人文化がそうだからか?インターネットがそうだからか?
少なくともインターネット上でのコミュニケーションは距離が0になる。加えて匿名性がある。本人を特定されないという守れられた状態のまま、同じ異常者を探すことができるのだろう。

 

連絡を取ってみることにした。学校のように与えられた環境ではなく、見ず知らずの人間とコミュニケーションをとるのはおそらくこれが最初だった。人間は敵。だがそうではない人間もいるのかもしれない。異常者同士が手を取り合うことが、あるいはできるのかもしれない。絵を描き「私も妊婦フェチです」といえばおそらく対話ができるのでは、と考えた。これはうまくいき、快く迎え入れられた。ネットの向こうのクリエイターと親交を築くことができたこの経験は、見ず知らずの人との間に初めて友好的な関係を得ることができた初の例である。

 

インターネットと同人文化、ここには異常者と呼ばれた人々にとって、幸せに生きることができる「可能性」がある。
この人々の側が増えれば、異常者と呼ばれる人々が幸せに生きることができる社会を作ることができるだろう。
もし普通でない人間を迫害し、踏みにじることが、未熟である子供たちに限定されるのであれば、この試みはおそらく妨害はされないであろう。もしそうなら、無差別殺人というゴールを目指すのではなく、オタク達とともにあるという「より道」を選んでもいい。

 

ここから自分にとって、暴力ではない、普通の人々との戦いが始まる。普通ではない人間が手を取り合い、数を増やし、普通ではない人間が普通と呼ばれる人々に滅ぼされることが無いところまでの地位を獲得するという戦いである。

 

教育が、あるいは同人文化を動かしている人間が言うように、暴力を伴わないやり方で自分を守ることが本当にできるのか?
疑問に思いながらも、異常者とされる人間の布教活動を始めた。
需要と供給が無いところに、需要と供給を生み出す活動である。

 

簡単な道ではない。クリエイターたちは容易には増えなかった。自分側の要求をただ押し付けても結果は出ない。常にクリエイターの利益になる行動を行って初めて、クリエイターたちは徐々に増え始め、それに伴いファンたちも増え始めた。利益が出なければ創作活動は続けられないのだ。

 

そうした仲間の一人が、妊婦フェチを中心とした普通ではない表現者たちの同人イベント「アブノーマルカーニバル」を開催した。そこで表現者たちは思い思いの「好き」を表現した。そのすべてを理解できたわけではなかったけれど、普通ではない人間が笑顔になって生きられる空間はうれしく思えた。それは間違いなく、普通ではない人間が幸せになることが可能であるという希望を体現したものだった。

 

やがて人づてに「アブノーマルカーニバル」の情報は伝わっていったらしく、東京のイベントに名古屋から人がやってくるような状態になっていた。

 

だがそのイベントは行政によって中止されることとなる。
それはかつて様子見をしていた「児童ポルノ法」の推進者たちが中止に追い込んだという話だった。
アブノーマルカーニバルに集まっていたのは、妊婦フェチを中心とした特殊な嗜好を持ったアマチュア漫画家たちとそのファンである。実在の児童はもちろん、「少女を性の対象とした表現」すらそこには無かったのだ。だからこの行動はあまりにも予想外だった。

 

現実に傷ついている児童もいる。だから暴力を抑え、社会に従おう、という意見に耳を傾け、暴力以外に力を注いだ結末は、社会によって希望を奪われるというものであった。

 

異常者として生まれても幸せに生きることはできる、という希望は奪われた。しかしそれは自分だけのことではなかったのかもしれない。ネット経由で目にしたのは、そうした異常な表現者の中から、自ら人生を終える決断をしたものが出たという話である。
名前は知らない。顔も知らない。けれどもそれは自分と同じ「普通ではない」人間として生まれてきた仲間のはずだ。相手は漫画家として、こちらはファンとして、顔を合わせたことがあったのかもしれない。

 

結局自分は何をしたのか?
社会に服従するという言葉に耳を傾ける一方、ロリコンと呼ばれる普通でない人々に背を向け、迫害される苦しみを知りながら、普通の人間と同じように排斥に加わり、そして死へと追いやってきた。それだけだ。

 

そして普通ではない人間が幸せになる可能性を潰したのだ。間接的ではあるが。

 

自分は何のために生きてきたのか。なんのために自殺ではなく戦うために生きるという選択をしたのか。
それは普通と呼ばれる人間と戦うためではなかったのか。
普通ではない人間を守るためではなかったのか。

 

だから。
自分は「暴力を振るうべきではない」という声に耳を傾けるべきではなかったのだ。現実に傷ついている人間がいるからという理由で、普通ではない人間を排除しようとする人間を許すべきではなかったのだ。自分が現実の少女との関係を望んでいないという理由で、ロリコンと呼ばれる人間が攻撃されていることに見て見ぬふりをすべきではなかったのだ。同じように苦しめられたくないという理由で、彼らを擁護しないという行動をとるべきではなかったのだ。

 

オタクの表現が守られさえすれば、それ以外の異常者・異端者が排除されてもよいなどと考えるべきではなかったのだ。

 

だから自分は許さない。普通という選民思想の持ち主ももちろんそうだが、何もしなかった自分自身を許さないのだ。自分の生きる意味のために。自殺ではなく、生きて戦うのだという信念のために。

 

オタク達が手を汚す気がないというのであれば自分が迫害者たちを殺害するしかないのだろう。元々自分はそれを望んでいたはずだ。たまたまオタクという集団に出会ったから、血を流さない方法でも普通でない人間も幸せになることができる、という幻覚を見ていただけで。

 

こうしたことがあって、無差別殺人を志すことになる。それはオタクに対する表現規制によっておこるものではない(きっかけではあるかもしれないが)。殺意が生まれたのは、障害者として生きるか死ぬかのところまで追い詰められたときに、あきらめて死ぬのではなく、生きるために戦うことを決意したときに生まれたものだ。
オタクと呼ばれる人々が見せた幻影は、社会とともに生きることで話し合いによって解決することができるということや、異常者でも幸せになることができるというものだ。普通と呼ばれる人々は、それがただの幻でしかないことを教えてくれただけである。

 

ごく限られた人間の幸福のために他人を自殺に追い込む「善人」たち。
これらを滅ぼし、異常と呼ばれる人が笑顔になれる未来を作るために、私は「悪人」になるのである。

 

自分が行おうとしている無差別殺人とは、障害者やオタクと呼ばれる人々の中の、他に居場所がない人々、あるいは児童と性的な関係を持つ心を持って生まれたような「普通でなく生まれた人々」と、普通という選民思想の間にある戦争なのである。だから厳密には無差別ではなく、普通と呼ばれる人々が殺害の対象ということになる。それが「敵」なのだ。少なくとも、児童ポルノ法を掲げた者たち、その擁護者たちは殺害の対象とすべきである。それがいかなる理由であれ、普通でない人間を排除し、普通と呼ばれる選民だけが幸福になればよいという集団に他ならないからだ。そして民主主義の国で児童ポルノ法が制定されたということは、この国においては大多数が普通でない人間を排除することを正義であると考えているということである。

 

攻撃の効率性 ― なぜ「無差別」殺人でなければならないか?

 

この社会は私が滅ぼす。普通の人々は絶滅させる。だが普通の人々に対し、彼らの言葉を借りるなら「異常な人間」は少数だ。もし戦うなら単純な戦い方では負ける。9対1が8対0になるだけだ。もっと効率の良い戦い方を必要とする。

 

無差別殺人という手段は、少なくとも単純な戦い方よりは優れている。無作為に、大量に命を奪うことができるなら、9対1は9対1のまま数を減らしていくことができる。引き分けには持ち込めそうだ。もちろん無差別ではなく普通の人々だけを狙い撃ちできるならそれに越したことはないが、残念ながら心の中を覗くための装置は発明されていない。

 

異常者側で徒党を組んで戦おうというやり方は困難だ。戦っても勝てない、というのが見えているためか、戦おうという意思を捨ててしまうらしい。

 

治安部隊の装備には詳しくないが、少なくとも銃と防弾チョッキくらいは身に着けているだろう。それに対し一般人は銃を手にすることすらできない。人数だけでなく装備面でも劣ることになる。治安部隊を滅ぼすことが目的ではないけれど、治安部隊の目的が「普通の人々」を守ることにある以上、「普通の人々」を滅ぼそうとするなら治安部隊との戦闘は避けられない。人数も装備も上の相手に対し、どのような防御が可能なのだろうか。

 

しかし治安部隊には制限がある。まだ何もしていない人間を攻撃することはできない。一撃目は治安部隊に敵対する側が実行することになる。この一撃目で勝てるなら防御を考える必要が無いし、反撃されればどうせ勝てないのだから防御を考えても無駄なのだ。だから一撃目をどれだけ強力にできるかが勝負になる。

 

最初の一撃を強力にするためにも無差別であることは都合がいい。敵味方を丁寧に区別する戦い方では、どうしても攻撃範囲を狭めなければならない。無差別の場合、爆発物や車で突撃などより広範囲に攻撃を仕掛ける手段を選択することができる。なんならダムに毒を流すようなやり方だっていい。

 

ではどこを攻撃するのが効率的なのだろう? なんの権力を持たない一般人を攻撃しても影響は知れている。もっとも人が死ななければ行政は動かなかったりするから、一般人を殺すことも間接的には意味があるはずだが・・・

 

女性団体などを攻撃することには価値があるかもしれない。異常者をたたいているのは連中なのだ。政治家を攻撃することが効率的かもしれない? 実際に法律を定めているのは彼らだ。しかし民主主義の国では、政治家でさえ「民意」に服従しているだけかもしれない。であるなら、やはり、民意を生み出している「普通の人々」を攻撃することが効率的という事になるのか・・・

 

日本は民主主義の国だ。ということは、民主主義国家とは何か? 民主主義国家の弱点はどこにあるのかを調べることがより効率的な攻撃を可能とするだろう。そして暴力は悪だという思想も、どのような行動パターンになるのかを予想できれば、裏をかく攻撃方法が見つかるかもしれない。

 

そう考え、民主主義や非暴力の思想を調べ始めたが、ここからおかしな方向に話が進み始める。いつか復讐の役に立つかもしれないと必死に学校で学んだ知識は、史実と異なっていたのだ。自分が日本人に対する攻撃をためらうのは、日本人が洗脳されているかもしれない、という可能性からである。つまり日本は民主主義ではなく、「民主主義である」という言葉が洗脳であり、教育が洗脳装置であって、科学に反するものを正義であると信じるように誘導されているという可能性について。

 

一旦まとめ

 

・心臓病という異常者として生まれ、いじめを受けたことにより、普通という選民思想に対する殺意が生まれた
・オタクと出会い、彼らの同人文化には異常者として生まれても幸せになることができる可能性があると判断した
・同人文化により幸せになることができるという可能性は「児童ポルノ法」を掲げる人々によって滅ぼされた。「暴力を行わない事」「社会のルールに従うこと」はこの防御に役立つことはなかった。
・普通という選民思想に対する殺意を持って、普通の人々を殺害する。少なくとも「児童ポルノ法」を掲げる人々が異常者として生まれた人々の敵であることには疑う余地がない。すでに自殺者が出ている。これは「生き残ること」を目的とした戦争である。