貴族政社会 戦後日本はCIAが作った

多くの人は社会の授業で、権力者が好き勝手権力を振るう専制(独裁)政治と、選挙で権力者を決める民主主義を習う。筆者は今のところ、それ以外について詳しく知っている人に出会ったことはない。
実は三権分立について書かれた本として教育される、モンテスキューの「法の精神」には4つの政治体制について書かれている。専制、貴族政、君主制、民主制がそれだ。そして民主制だけでなく貴族政にも選挙制度はあるのだ。ただこれは民主制の選挙とは少し異なっている。
つまり選挙がある、という事だけでは民主制である、と言い切れるわけではないのだけれど、このことを教育されたという人はほとんどいないようである。これは日本人の多くが民主主義を正しく教育されてないという事でもある。今回の話はなぜそのようなことになっているのか、戦後に民主主義が与えられたのではないのか、ということについて説明する。
まずは法の精神に書かれた社会体制について説明しよう。

 

◆貴族政とは何か-法の精神にある4政体

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モンテスキュー
「法の精神」で民主主義の基礎となる三権分立を提唱した

民主主義の原典の一つとしてモンテスキューの「法の精神」がある。民主主義に重要な三権分立を主張した本とされる。
実際のところ「法の精神」は何の本かというと、人類全体の歴史を調べたうえで「国家はどのように滅亡するのか」を分析した本である。三権分立はその分析の中で出てきた一部にすぎない。法の精神の中で民主制が優れているとされるのは、国家が滅亡するまでの期間が最も長いという理由である。

この分析の中で、人類が経験してきた国家を4つのタイプに分類した。簡単に紹介しよう。

 

専制

独裁者個人が好き勝手政治を行う、学校で習うような恐怖による支配社会である。支配者は人民にとって恐怖の存在でなければならない。そうでなければ革命などによって権力を奪われてしまう。日本風に言えばメンツが重要で、ナメられたら負けなのである。
恐怖による委縮や民衆からの搾取によって産業は育ちにくい。しかし恐怖されるためには弱みを見せるわけにはいかない。そのため、外国の資源や産業を奪う必要があり、領土の拡大や戦争を必要とする。

 

君主制

専制が暴君とすれば、君主制は名君となる独裁国家である。専制と同様に個人が政治の頂点にあるが、名誉を重んじる事で自浄作用が働き、善政を行う事ができる。
権力は基本的には世襲であり、子孫が善政を行う事は保障されず、代替りの際に専制になる可能性がある。(逆に専制の権力者から名君が産まれる場合もある)
権力者は自由に権力を振るう事が出来るが、不平等が起こらないよう、以前と同じ判断が必要な場合は前例を踏襲する事が多い。
嘘による支配や政治の腐敗は「恥ずべき事」という理由で発生しにくいが、君主の個性に依存する。
天皇を頂点とした戦前の日本は君主制である。君主制では名誉こそが重要であるため、不敬罪が存在する。

 

【民主制】

国民の投票により権力者が決定する政治体制である。ローマ帝国などがこれにあたり、4つの政体の中で最も滅亡までの時間が長いとされる。
国民が実質的な支配者であり、自由が尊重される。創作が盛んに行われ、文化が育ちやすい。権力者を置き換える事が出来るため国民の意欲が削がれにくく、産業が育ちやすい。
他国を支配し領土を拡大する事は、他の文化を持つ人民の流入を招き、国家の意思統一を難しくする。このため民主制は戦争を必要としない。
民衆が権力を持つため、国民の半数が国家の滅亡を望む事になれば存続できない。このため民主制には愛国心が不可欠である。

 

【貴族制】

君主なき君主制と表現される事もあるが、少数の実力者が派閥を作り、都度派閥間で闘争したり談合したりしながら国政を行う政体である。
民主制のように選挙は存在するが、民衆の意見を政治に反映させる事が目的ではなく、派閥間の権力闘争の道具として使用される。
貴族制に至るにはいくつかのパターンがあり、一つは君主制から君主が失われる場合。例えば世継ぎが幼いうちに君主が他界するようなパターンがある。また民主制から貴族制に至る場合もあり、商人と権力者が癒着するようなパターンである。癒着している商人が派閥を支持し、派閥は商人に便宜を図る。
専制と異なり権力者は個人ではないため、代替りによって善政に変わる事が期待できない。また選挙も派閥と癒着している者たちの固定票があるため、浄化作用を期待しにくい。
貴族達が民衆に重税を課し、その資金を山分けにする様な国家は、民衆にとって最も過酷とされる。

 

【戦後日本】

戦後日本は、天皇という君主を失った君主制であり、貴族政に属する。(全員ではないだろうが)旧貴族が自民党である。
憲法上は民主政であり、選挙もある。そして政権交代が起こる事もある。法の精神によれば、民主政の場合はこれによって浄化作用が起こるはずなのだが、貴族政である戦後日本ではこれが起こらない。
教育では、日本は民主制であるとされるが、法の精神や社会契約論の教育は無い。
これらはなぜなのか? 第二次世界大戦で勝利したアメリカは日本を民主主義にしたとされるが、実際はそうなっていない。ではアメリカは日本をどの様にしたかったのだろうか?


GHQに紛れ込んだ工作員

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機密文書KV2/3261、通称ノーマンファイル
イギリス公文書館が公開し、2020年に研究者がアクセスできるようになった

戦後の教育を作るにあたり、マッカーサーは日本を戦争しない国にしようと考えていた。しかしそうはならなかった。
イギリス国立公文書館が公開した情報機関の機密文書に、ノーマンのことを記したKV2/3261、通称ノーマンファイルがある。それによると、ハーバート・ノーマン共産主義者とされる。ノーマンはGHQの通訳として、公職追放に関わった人物である。

公職追放によって追放された教師たちは軍国主義の教師たちで間違いなかった。しかし当時の教師たちの証言によれば、戦後教育に登用された教師たちは反戦を掲げた平和主義の教師ではなく、共産主義思想を持った者たちが選ばれた。

こうした戦後教育に疑問を持った人たちの著書を見ると、GHQ共産主義者を教育者に据えたという証言が書かれている。例えば「日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと」がそうだ。
GHQ共産主義に支配されていた、というような論調で書かれているが、マッカーサーなどGHQ上層部は民主主義を実現しようとしていたが、日本との間に入った通訳が共産主義者だった、というのが実際のところのようだ。

 

日本側はGHQ上層部が何を考えているか知ることはできなかった。GHQ占領下では命令に従う事しか出来ないからだ。一方のGHQ上層部もまた自分たちが日本に何をしているのか、正確に把握する事はできなかった。通訳が正確な情報をもたらさなかったからである。

 

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こうしてGHQ統治下の日本は共産主義へと向かう事となった。

 

◆事態に気付いたジャーナリスト ハリー・カーン

GHQの占領下にあった戦後日本は共産主義へと向かっていた。この事に気づいた人物がいる。雑誌NewsWeekのジャーナリスト「ハリー・カーン」である。

カーンには日本にパケナムという部下がいた。パケナムは神戸の出身で流暢な日本語を話す事ができた。このためGHQの通訳とは無関係に、公職追放にあった者や識者らから事情を聞く事ができた。

このままでは日本は共産主義国に奪われる。そうした危機感を持ったカーンはGHQに危険性を訴えた。しかしパケナムと日本人が深い関係を持っている事が災いし、「日本人と共謀して占領政策を骨抜きにしようと企む不届き者」とみなされ、逆に敵視されることとなった。このためカーンは日本では十分な活動は出来なくなり、アメリカに帰って活動する事を余儀なくされた。

 

1人の記者としてできる事は限られるが、記事を書く時に日本の状況を織り交ぜて書いた。この内容が軍人の目に留まり、フーバー元大統領に伝わり、やがて国務長官ダレスの目に留まり、この内容は本当なのか、と軍や政治に影響力を持つ人々がカーンの元に集まるようになった。CIA長官のダレス(国務長官ダレスの弟)や、第二次世界大戦に突き進むルーズベルト大統領を快く思っていなかったフーバー元大統領なども加わり、日本の戦後を考える「ジャパン・ロビー」が結成される事になる。

 

カーンは知り合いの弁護士事務所に部屋を借り、そこがジャパン・ロビーの活動拠点となった。陰謀論者の中には「人目につかない隠れ家を作り、秘密裏に謀略を張り巡らせていた」と主張する者もいるが、ジャーナリストのカーンにはオフィスを構えるだけの資金が無く居候するしかなかったと言うのが本当のところのようである。

 

◆逆コース・日本の民主主義化の停止

日本を共産主義国にしない。この目標のためにカーンは日本の戦後について「速やかな政治権力と治安の回復」「速やかな経済の復興」「共産革命を阻止する軍事力(特に陸軍)の回復」を主張した。
ジャパン・ロビーには様々な政治・軍事関係者が集まっていたが、同時に一枚岩ではなく、調整は難航した。特に日本と戦った軍部は日本の軍事力の回復に反対であった。これは最終的に日本軍の復活は行わず、代わりに日米軍事同盟を結んでアメリカ軍が駐留するという形になった。日米同盟は日本に再軍備をさせないという目的もあったのだろうが、もう一つは共産革命を起こさせない事が目的だった。

経済の回復は財閥の復活が必要となった。ちょうど財閥解体が進められるタイミングであった。この政策を転換する事となった。またマッカーサーの副官がケーディスからウィロビーへと変更となった。

迅速な政治権力の回復にも問題があった。日本には民主主義の指導者がいないという問題である。最終的に速度を優先して日本の民主主義化をあきらめ、旧貴族から政治家に戻す事になった。共産主義国の脅威に対抗するために、日本を民主主義国にするという選択は取れなかったのである。この民主主義に反する方針は「逆コース」などとも呼ばれる。

 

◆釈放されたA級戦犯

日本において戦争を進めてきた政治家、軍人、財界の要人などは、平和に対する罪として東京裁判を経て、A級戦犯として巣鴨拘置所に収容されていた。逆コースの実現のため、CIAが動き、A級戦犯を釈放し社会復帰させる事で迅速な経済・統治機構の回復が図られる事となった。

財閥解体は見送られ、財界の人々は釈放された。

政治家としては岸信介が選ばれた。これはA級戦犯の中で最も民主主義に近い思想を持っていたからとされる。そして岸信介を中心として自民党が作られた。

自民党結党に際して使用された資金は、同じくA級戦犯として収容されてきた児玉誉士夫から没収した財産である。大物ヤクザの児玉は、戦時中麻薬を売って東南アジアにレアメタル利権を作りあげていた。これら軍事物資に流用可能なものをGHQは没収していたが、これが自民党結党に使用された。現在も自民党が反社会組織と関係があるのではと噂されるが、こうした関係は結党当初からということになる。

 

終戦-自民党設立、日米同盟、サンフランシスコ条約

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サンフランシスコ条約締結
日本と連合国の戦争が終わり、同日日米同盟が結ばれた

こうして第二次世界大戦終結した。天皇は権力の座から追われて象徴とされ、軍隊は解体されたが、それ以外は戦前に戻された。

軍隊が解体されることによって、共産主義革命の可能性が増える。それを抑えるため日米同盟が結ばれ、米軍が日本に駐留する事となった。

こうして終戦を迎え、終戦の条約であるサンフランシスコ条約と、日米同盟が同時に結ばれた。この連合国と日本の間の終戦の条約に、共産主義国であるソビエトや中国は加わっていない。

日本は領土についても、戦争開始前の領土に戻された。ただし北方四島については矛盾する形で条約が結ばれた。つまり英語版のサンフランシスコ条約では「日本はクリル諸島を手放せ」となっており、日本語版のサンフランシスコ条約では「日本は千島列島を手放せ」になっている。クリル諸島には北方四島のうち2島が含まれる。千島列島には含まれない、という矛盾である。

これが日本とソビエトが離反する事を目的としていたかどうかは定かではないが、Mitrokhin Archiveによれば、戦後KGBの活動でソビエトと日本が手を組もうとした時、北方領土問題によって決裂した事があったようである。

(Mitrokhin Archive:ソビエト崩壊時にKGBの機密文書を盗み出しイギリスに亡命したMitrokhinの情報をまとめて出版された本)

 

◆まとめ

戦後日本は、与えられた民主主義の憲法と、共産主義者による教育、貴族政による政治体制を持った国家となった。選挙があるから民主主義である、と教育されるが、実態はそうではない。民意の反映を目的とせず、派閥争いのためだけに選挙を行う貴族政も存在するが、それは法の精神を直接読まなければわからないだろう。

 

これは必ずしも戦勝国アメリカの意図通りというわけではなく、共産主義国のスパイの影響が強すぎたために、日本を民主国にするという選択肢をとることができなかったようだ。

 

おそらく、こうした戦後の姿を日本国民に教育する事は、日本を民主主義にしたくない共産主義者にとっても、貴族政を維持したい政治家にとっても、戦争の結果として日本が民主主義国になった事にしたいアメリカにとっても都合が悪かったのではないかと考えられる。

 

支配されたくない人間は、学校教育を離れ、自ら学ばなければならない。

私個人としては、そうした学習の結果として日本国民自身の意思で民主主義を選択し、自分達で政治家を擁立し、貴族政ではない日本を作る事を希望している。文化が発達し、国家の寿命が最も長く、戦争にメリットを持たない民主主義は、欧米などに比べ争いを好まない日本人にとって恩恵が多い政治体制であるはずだから。

 

無差別殺人を計画していたらユダヤの陰謀論を追うハメになった件(3/3)

無差別殺人、ちょっと先送り

 

自分は何がやりたかったのだろうか。
たとえ死刑になるとしても無差別殺人をやりたいのはなぜか。
そこまでして何を手に入れたいのか。

 

決まっている。
生まれてきて、生きているというそれだけで、悪とされない世界を作りたい。それだけだ。
障害者や異常な性癖など、生まれ持った特性を理由に悪とする側が悪となる世界。
できればそこに同人文化のような、自由な創作の世界を組み合わせたい。それはある瞬間に幸せでなくても、いつか幸せになるものが生み出される希望が残る。
さらに言えば、科学に人々が服従する世界である。万人に対して平等に作用するものは科学しかない。逆に言えば時代によって変化せず、誰にとっても同じように作用するものは科学である。そして自然法に従うことを目的とした民主主義の正義もまた科学とともにあり、自然崇拝の神道をあがめている日本人にとっても、それは決して相反するものではないはずだ。
それに少しでも近づけるなら、自分の命も、この世に生まれてから手に入れることのできたすべてを捧げてもいい。

 

とはいえ、いざ攻撃してみたら人違いだった、というのは避けたい。障害者や生まれながらに異常とされる性癖を持つ人に対して、表現の自由という形で攻撃を仕掛けてくる人間の正体を突き止めることは、この危険性を回避する行動につながる。
それに創作者らを攻撃してしまえば、自らが望む世界から遠のくことにもつながるだろう。

 

となるとやっぱり調べなきゃならない。自分が攻撃すべき相手は本当に日本人で正しいのかどうか。通称「ユダヤ陰謀論」と呼ばれているものは一体何なのか。それが本当に自分が敵対する相手なのかを。

 

自分が戦うべき相手はおそらく、共産主義者か、ユダヤ人(グローバリスト)か、その両方である。キリスト教がもしかしたら含まれる。ユダヤ人(シオニスト=聖地に帰ろうとする人々)はよくわからない。自分にはユダヤ陰謀論は、ユダヤ教に反しているように見えるからだ。

 

自分の敵による日本の支配、または破壊(仮説)

 

ここから先は、まだ決定的な証拠が見つかっていないもの。ネットや本などで調べて出てきた情報をつないだもの。これから証拠があるかどうかを調べていくものだ。一応どこから情報を手に入れたかについては、わかる範囲で記してある。

 

ユダヤ陰謀論の中心にいるのはロスチャイルド家(イギリス)とロックフェラー家(アメリカ)である。(参考:馬淵睦夫著 国難の正体)

 

目的は国境のない世界を作り、一部の支配者によって全世界の人々を家畜(ゴイム)のように支配することらしい? (ネットで出てくる一般的なユダヤ陰謀論の内容。国境のない世界=一つの世界についてはロックフェラー回顧録にも同じ記述がある)

 

国境のない世界を目指す思想は、最近では「新世界秩序」と呼ばれる(参考:馬淵睦夫著 国難の正体)。馬淵氏のYoutubeの動画を見るとディープステートという呼び方もするらしい?

 

新世界秩序の思想は、イデオロギーの放棄、戦争の放棄、人類普遍の法則に従うこと、を中心として主張している(参考:ゴルバチョフ回想録<下>)。

 

共産主義は一部のエリートが富を支配し、国民は平等に貧しくなる。同じ共産主義国同士で同盟を作り、世界を共産主義という一つの思想により支配しようとする。新自由主義は一部の資産家が富を支配し、多くの労働者は等しく貧しくなる。グローバル経済により人の往来・経済・物流を自由にし、国境の意味を減少させるという一つの世界を目指す思想である。共産主義か資本主義かという違いはあるが、目指しているところは一部の者が支配する一つの世界という意味において同一である(参考:馬淵睦夫著 国難の正体)

 

ロスチャイルド家の血筋にマルクスがいる(rothschild malx bloodline などで検索)

 

ロスチャイルドマルクスを支援したときに使用した小切手が現存しており、大英博物館に展示されていたこともある(イルミナティ研究家。本当? だれか調べて)

 

マルクスユダヤ人であり、ユダヤ教の宗教的指導者(ラビ)の家系に生まれた。これは世襲されるもので他人がなることができない。(参考:馬淵睦夫著 国難の正体)

 

マルクスが作った共産主義は労働者が革命を起こし、資本家を打倒してすべての人の富の平等を目指す思想といわれるが、労働者による革命が失敗して以降、文化破壊を目的とする学問(フランクフルト学派)に軸足を移すことになった。(参考:田中英道OSS日本計画)

 

フランクフルト学派にはソビエト最高のスパイといわれるリヒャルト・ゾルゲが在籍していた(Wikipediaより)

 

フランクフルト学派に資金援助したのはロックフェラーである(参考:馬淵睦夫著 国難の正体、その他いくつか研究者が同じことを述べている)

 

フランクフルト学派はドイツのフランクフルト大学に拠点があったことでそう呼ばれている。
フランクフルト学派ユダヤ人が中心である(Wikipediaなど)。後にヒトラーによって迫害され、一部はアメリカに亡命し、ドイツの事情を知るための情報源という名目でアメリカ情報局の中に入り込んだ(参考:ヴェノナ)

 

第二次世界大戦時の米首相ルーズベルトと英首相チャーチルは資金的に助けたロスチャイルド支配下にある。この資金の出どころはアヘン戦争前に中国に売られたアヘンであるらしい(参考:鬼塚 英昭著 20世紀のファウスト。この本には個々の事象の参考資料を明示しておらず、またこの内容は他に類似の情報を見つけられないため懐疑的)

 

ルーズベルトソビエトの暗号解読により、「キャプテン」のコードネームで呼ばれていた(参考:ヴェノナ。なおソビエトのスパイであるという断定は避けている)

 

ルーズベルトアメリカ初の情報局を作った。(参考:高橋史朗著 日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと)

 

ルーズベルト共産主義者に好意的であった。(資料失念)

 

戦後GHQの現地での最高責任者はマッカーサーであったが、その目的とするところ(洗脳の内容や方向性など)は連合国が管理するという名目で、アメリカとイギリスの情報局が管理していた。(参考:江藤 淳 著 閉された言語空間。なぜアメリカとイギリス以外が含まれないのかが不明)

 

洗脳はルーズベルトが関わっており、それは日本だけでなくアメリカ国民に対しても行われた。そのためアメリカでもルーズベルトを嫌う学術関係者がいて、ルーズベルト批判をすると日本人でも好意的に扱われる場合がある(日本国史学会で発表していた先生から聞いた話)

 

プロパガンダはもともと宗教用語で布教の意味を持つが、政治家たちは国民に対しメディアを通じて限られた情報を与えることで民主主義の政治を都合のいいように方向づけることができることに気が付いた。アメリカなど民主主義国家と考えられているが、そこに住んでいる人がそう思い込んでいるだけで、実際はメディアを通じ操られているのである(参考:エドワード・バーネイズ著 プロパガンダ。PRの父と呼ばれるフロイトの甥の著書)

 

国連を作ったのはルーズベルトチャーチルスターリンである(Wikiより)

 

国連人権委員会を作ったのはルーズベルトの妻である(日本国史学会で発表していた先生から聞いた話)

 

 国連人権委員会児童ポルノオタク文化を結びつけて攻撃している(ニュースなど)

 

ソビエト革命(ボルシェヴィキ革命)の革命者レフ・トロツキーアメリカからロシアに渡り革命を起こした。彼のアメリカでの収支の記録からは革命に必要な資金を手に入れることは不可能だったはずで、ロシアへの道中で資金を手に入れられる相手は、船に同乗していたウォール街の銀行家たちだろうと考えられる(参考:アントニィ・C・サットン著 ウォール街ボルシェビキ革命 http://www.nn.em-net.ne.jp/~komoda/index2.html。サットンはスタンフォード大学フーバー研究所の研究者)

 

日本に参戦を決めさせた最後通牒であるハルノートを作ったハリー・デクスター・ホワイトは共産主義のスパイであった(参考:ヴェノナ)

 

マッカーサーの通訳を担当し、公職追放を行ったエドガートン・ハーバート・ノーマン共産主義者であった(参考:イギリス情報局MI5レポートKV2/3261)

 

戦後、公職追放にあった教師などは、当時マッカーサー反戦主義の教師を残すと宣言したため反戦主義の教師を推薦したが、それらは公職追放され、共産主義の教師ばかりが採用されたことを不思議に思っていたと証言している。(参考:高橋史朗著 日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと)

 

表現規制の中心となるわいせつ物頒布などの罪は、GHQもわいせつ物を認めなかったことが根拠とされている。チャタレー事件などは逮捕はGHQ占領期であったが、有罪とされたのはGHQが去った後のことである。(Wikiなどで年代を調べた結果)

 

 GHQはわいせつ物を規制したとされるが、これは正確ではなく、暗号文に使われうる表現が規制された。例えば「N大佐の情事」などと表現すると、このNが暗号文として使われうる、その目的は占領統治の地位を落とすことである、と判断され規制されるという具合で、わいせつであることを理由に取り締まったわけではないが、結果としてわいせつ表現が多く取り締まられた(資料失念。たぶん別冊 太陽 発禁本1~3)

 

わいせつ表現規制明治2年に禁止され、それ以前は禁止されていなかった。江戸時代にも春画禁止令は存在したがそれは版画だけであり肉筆画は対象ではなく、また遊郭などで大っぴらに客引きをする行為も規制されていなかったことから、目的は浪費を抑えることでわいせつ規制ではなかったと考えられる(参考:映画「春画と日本人」の中で研究者が言っている内容)

 

明治維新は日本を西洋から守るという名目で行われたが、明治になってからは日本文化が古いものとして否定され、西洋文化に舵を切った(一般論として)

 

坂本龍馬に資金と武器を提供したのはイギリス人のトーマス・ブレーク・グラバーである(参考:長崎のグラバー亭展示物、加治 将一著 龍馬の黒幕、山口県文書館所蔵 デ・ビー・グラバ 史談速記)

 

尊王攘夷論を唱えたのはイギリス人外交官のアーネスト・サトウである(参考:加治 将一著 龍馬の黒幕)

 

維新の志士である西郷隆盛は、明治政府に反乱を起こして戦死(自害)した。(Wikiより)。明治政府は維新の志士の望んだ政府にはならなかったらしい。(では誰が統治していたのか?)

 

グラバーは上海のジャーディン・マセソン商会から来た商人である(参考:ブライアン・バークガフニ著 花と霜 グラバー家の人々)。ジャーディン・マセソン商会は当時中国で売られていたアヘンの代金回収などを行っていた。立ち上げ人のジャーディンもマセソンもともにユダヤ人であるが(Wikiより)、のちにロスチャイルド家に合流する。

 

明治維新ごろの陰謀論として、隣の中国にアヘンが蔓延しているのにすぐ隣の日本にアヘンが流入しなかったのはなぜか? というものがあるが、ともにイギリスが関与していた。(陰謀論はネットで見たり知り合いの同人作家から聞いたり)

 

グラバーは国境のない世界を目的としており、日本・中国・西洋の文化の合成を試みていた。これはワカラン文化(日本の和、中国の華、オランダの蘭を合わせて和華蘭)と呼ばれ、現在でも長崎の人に親しまれている。(参考:グラバー亭展示物、長崎県のパンフレットなど)

 

グラバーは日本に初の蒸気機関を持ち込み、石炭を採掘した。これが軍艦島などにつながる。西洋の造船技術も持ち込んだ。グラバーや龍馬と協力し、造船と石炭の利権を得たのが岩崎弥太郎三菱財閥創始者)である(参考:グラバー亭展示物より)。上野で旧岩崎邸が観光名所として公開されているが、これもまた西洋建築を日本建築が融合した境目のない形の建物となっている。

 

麻生元総理の祖父にあたる吉田茂吉田健三の養子であったが、吉田健三はロスチャイルド家所有のジャーディンマセソン商会横浜支店の支店長である(Wikiより)。吉田茂鳩山一郎公職追放にあったことにより総理となる(Wikiより)。憲法九条の草案を作ったのは幣原喜重郎であったが、総理になることをためらった幣原喜重郎を説得したのは吉田茂であった。(Wikiなど)。吉田茂がスパイであるとする説もある(ネット情報)

 

戦後日本の中心となった自民党を作った岸信介A級戦犯として巣鴨プリズンに投獄され、死刑を免れた一人である。三菱など財閥のトップも同様にA級戦犯とされ投獄されたが、死刑を免れ釈放されている。巣鴨プリズンに投獄され、死刑を免れたものの中で巣鴨プリズンコネクションと呼ばれる人脈が作られ、この設立にはウォール街が関わっている。(参考:金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った)。自民党設立にウォール街とその使者のハリー・カーンが関与しており(参考:軍隊なき占領)、このことはハリー・カーンの部下パケナムの日記にも記されている(参考:占領史追跡)

 

巣鴨プリズンの人脈を使い日本を支配することは、共産主義国、主にソビエトの侵攻に対する砦として日本を利用するという考えに基づく。このため米国では日本に民主主義を与えるという方針はあえて撤回された。この方針を「逆コース」と呼ぶ。(参考:軍隊なき占領)

 

日本の選挙における供託金は先進国一の高さであるが、これは「共産主義者が政治に強い影響を持つことを防ぐため」という名目とされる(一般論として)

 

冷戦時代に共産主義と対立するという名目で、国際勝共連合という政治団体が作られ、韓国・日本の政治家が参加した。トップは統一教会である。(Wikiより)

 

統一教会KCIAのフロント宗教団体であり、文鮮明機関と呼ばれる大がかりな情報組織であるらしい(参考:アメリカ下院国際関係委員会国際機構小委員報告書 http://poligion.wpblog.jp/archives/5370とか)。岸・児玉・笹川の巣鴨プリズンの人々が関わっているとされる。

 

統一教会の思想は人類皆兄弟思想である。人類すべてが家族同然になれば争いが無くなる、という教えで、これもやはり一つの世界を目指す思想と言えそうだ(参考:統一教会の人から配られた布教用のパンフレット)。教祖の文鮮明先生は「先生」であり、超常的な神秘を軸とする宗教とは異なるようだ。

 

巣鴨プリズンコネクションの図には含まれていないが、創価学会笹川良一、その子の笹川陽平と癒着ともいうべき深い関係を持っている(ネット情報)。創価学会公明党を擁立し、連立与党として政治に関与している。

 

A級戦犯であり、元国家公安委員長正力松太郎は読売新聞のトップとして世論工作に従事したらしい? またそれに関連して日本に原発を持ち込んだのは正力松太郎とされる(資料失念)。日本にテレビ放送網を広げることに関与したとされる(参考:有馬 哲夫著 日本テレビとCIA)。テレビ局は株主として新聞社を配下に置いているため、テレビ網を支配できれば日本のメディアを支配することができる。
民主主義を日本に与えなかったことと合わせると、PRの父エドワード・バーネイズが指摘したアメリカのように、民衆は民主主義の国と信じているが、実際はメディアを通じ操られる状況を作り出すことができそうである。
国家公安委員長のコネで特定の犯罪の発生を警察から聞き出し、それをメディアで発信することで、都合が悪い相手を封じ込める法律を防犯と称して成立させるよう世論を導くことができそうである。

 

巣鴨プリズンコネクションの人脈図からすると、笹川良一を中心に統一教会正力松太郎がつながっているようである(参考:金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った)。もしこれが事実なら、メディアは韓国に有利となるような情報を発信する可能性があるだろう。

 

中国共産党はその設立にアメリカが関わっている(参考:ジョン・エマーソン著 嵐の中の外交官)。
また同様の内容についてアメリカで赤狩りを進めたジョセフ・マッカーシーが「共産中国はアメリカが作った」という著書で述べている。マッカーシーは議会で、イルミナティが「アメリカ合衆国に存在し、何年間も存続しつづけてきたという完全、かつ疑う余地のない証拠を握っております。」と演説しているらしい(Web情報)
このマッカーシーの時に共に動いていた弁護士とトランプ大統領が懇意であるらしい。

 

フェミニズム共産主義の一部である。エンゲルスの「家族・私有財産・国家の起源」がフェミニズムの原典であるらしい(参考:パトリック・J. ブキャナン著 病むアメリカ、滅びゆく西洋)。つまり、家庭内でのブルジョワは男性であり、プロレタリアートが女性なので、家族というシステムを破壊して女性は解放されなければならない、という主張だ。
フェミニズムの原典としてより古いウルストンクラフトの「女性の権利の擁護」を挙げるものもあるだろう。女性の参政権や教育を受ける権利を主張した本だが、家族に対するウルストンクラフトの主張は、「自分のためだけに生きる女性は堕落する。そのため少しでも早く結婚する方が良い」というものであり、現在のフェミニズムとは異なっている。

 

日本のフェミニズム田嶋陽子など社民党が中心となって広めた。社民党党首土井たか子北朝鮮系の帰化人とされる(ネット情報)。

 

情報工作には性的な情報が利用される。例えばハニートラップと呼ばれる手法は性的な関係を提供することで情報を取得したり、性的関係を結んだことを暴露しないことを条件に相手を意のままに操ろうとする(一般論として)。自身の性にまつわる情報を流布されることに恥を感じる人間の特性を利用したものである。この辱めは、共産国においては名誉を貶める手法として、粛清の一部として利用されているようである(例えばニコライ・エジョフは同性愛・異性愛の両面で性的に逸脱したという告白させられたようである)。

 

自分が人生で見てきた風景と比較

 

さて、自分が無差別殺人をしようと思ったきっかけである表現規制をここに追加し、仮説を立ててみる。

 

民主主義を与えられず、メディアと教育による情報支配が行われた日本の中で、民主主義の思想を体現したのは、表現の自由を掲げた同人文化である。支配には民主主義は望ましくない。このため、メディア、教育、フェミニズムなどの社会運動、巣鴨プリズンコネクションを通じた政治家、宗教家を通じ、民主主義の芽を摘む必要があった。

 

性的なものを批判することを目的とした規制に対し反対の言葉を上げるのは困難である、というハニートラップと同様の特性を利用し、性的な表現規制を中心として民主主義の根幹をつぶそうとした(している)。このためにわいせつ物を罪とする法律を作ったのだろう。

 

この仮説が、自分が人生で見てきた風景を矛盾なく説明できるか? という事を確認してみる。

 

メディアを通じ、幼女連続殺人犯宮崎勤事件が報道され、宮崎勤が所持していたものの中に児童ポルノが存在したことがきっかけで、フェミニストたちにより児童ポルノ法制定につながる。宮崎勤は当時奇特な事件だっただけに多くの人が関心を集めたが、メディアとは無関係にこの事件を追った者は児童ポルノがことさらににピックアップされたことは疑問であるという。児童ではない一般のグラビア雑誌なども所有していたし、特に猟奇的なビデオ作品を所持していたことが無視されたことが疑問であると指摘する。多摩美術大学出身の彫刻家から宮崎の愛した作品は「ギニーピッグ」というものであると紹介されたが、これを見た学生から自殺者が出たと証言していた。内容は猟奇的なお笑いであり、1時間に満たない内容ではあるが、殺人や自称、人の内臓を使用した料理などを「楽しいもの」として認識できるような作りになっている。
後に報道者は児童をモデルとした写真集などをやり玉に挙げたことが中立的でないと認めたが、なぜそのような選択をしたかについては現在も解明されていない。
この後同人文化は、宮崎勤予備軍として報道されることになる。この流れは1980年代ごろからのものだが、ミトロヒン文書によれば、1960年代からソ連のスパイは日本のマスコミに入り始めたらしい。

 

エンゲルスの書と同じ主張をするフェミニストたちもまた、オタク・同人文化の攻撃を続けている。表現規制を法制度とし、表現の自由を縮小させることが目的であるようだ。中にはオタク作品とコラボした献血を攻撃するため、献血をボイコットするなども行っていたらしいが、彼らにとっては病人の生存よりもオタク文化を攻撃することの方が優先のようだ。権力を持って生存を脅かすのは、明確に生存権の否定である。
病人たちの生存の可能性を踏みにじるフェミニストたちに言わせれば、フェミニズムは女性のみならず、すべての弱者のための思想なのだそうだ。

 

青少年育成条例石原慎太郎が作ったが、これも巣鴨プリズンコネクションの人脈図に含まれる人物である。青少年の健全な教育のためにという名目で、やはり同人文化は攻撃された。表現の自由という民主主義の思想とも、誰もが共に生きることができるという平等の思想とも反するものを「健全」と呼んでいるが、健全とは何か? ということについては語られない。民主主義ではない何かが、保守政治家の「健全」である。

 

メディアが持ち上げた野党民主党は、一時期オタク表現の養護を唱えていた。小泉フィーバーの頃だ。しかしこれは共産主義の意向に反する。実際政権につく頃には、フェミニズムを擁護し、オタク表現を否定する側に代わっている。多重国籍の議員を擁立している。

 

保守派と言われる自民党は「子供を守るため」という名目で児童ポルノ法を作ったが、一方で虐待される子供は未だに救い出されない。虐待されるよりは、と慈恵医大病院は「赤ちゃんポスト」を作ったが、当時首相であった安倍首相は「赤ちゃんポスト」に否定的であった。これは同じようなシステムは他の病院などに波及していないし、公的な支援も行われていない。虐待から子供を守る手段や補助は、「子供を守るため」という主張をした人たちからは出てきていない。女性の結婚可能年齢は18歳以上に引き上げられた。元々男性側が18歳で結婚可能だったが、これは金銭的に社会的責任を負えるというのが理由であって、子供ではないからという理由ではない。18歳という数値に根拠が無いのだ。「菊と刀」で示されている、日本の出生率を支える若い母親が登場しないようにするには意味がある数値である。保守を名乗る自民党は、一貫して出生率を下げることを推し進めている。
移民を入れないと言いながら、外国人労働者を入れることには積極的である。逃亡者を積極的につかまるようなことはしていないようだ。外務大臣が、外国人地方参政権を訴えるなどということもあったようである。モンテスキューの「法の精神」によれば、愛国心の無いものが過半数になり、国家の滅亡を望めば実現できるのが民主制国家であり、存続するためには愛国心が不可欠とされる。愛国心を持たないであろう移民政策は民主主義に矛盾する。
もし与党の目的が日本人を減らすことにあるのなら、新型コロナの危険性を訴えたときに中国からの旅行者を拒否しなかったことも、十分に感染者が減る前にGotoトラベルなど感染が広がりうる施策を行ったことも説明がつく。

 

アメリカ追従を批判する野党が、なぜGHQに与えられた憲法を守ろうとするのかについても説明がつくのだ。人類普遍の原理、という言葉が憲法前文に含まれることを考えると、この憲法が新世界秩序を目的としたものである、と考えることができる。このような矛盾した行動をこの仮説は説明可能である。

 

無差別殺人、続けていくのか? 自分が目指す未来

 

仮説に矛盾は無い。
「仮説以外の原因があった可能性」を否定できているわけではないので科学的とまでは言えないが、科学的であると主張するために必要な「無矛盾であること」は満たしてそうだ。

 

本当だろうか?

 

もし本当なら、自分が日本人を相手に復讐しようとしているのは間違っているし、無差別殺人を実行しても意味をなさない。普通でない人間を迫害する法律があるのはこの国の多数が望んだ結果だから、この国の多数の人間を殺害すべき、という無差別殺人の動機が否定される。
そして仮説が正しいなら、共産主義が消滅しない限り、創作者の未来は常に脅かし続けられ、普通として生まれなかった者はスケープゴートとして利用され続けることになる。安寧の日は来ない。
一応目の前で起きていることと矛盾は無いが、十分な証拠がそろっていると言えるだろうか?

 

わからない。わからないから調べなければならないのだ。

 

戦いから無関係の人間を攻撃するという無駄を省くために。
勝利するために。
守るべき人々を守るために。
生まれてきて、生きているという理由で、悪とされないために。
自分が望む世界を手に入れるために。
すべての人の平等のため、科学に服従させるために。

 

 

この国の矛盾、教えられてきたことの嘘について、無差別殺人を決意してから約10年、いろいろなことを調べてきた。この調査をもとに、自分の正義を少し修正しよう。
民主主義社会の日本を憎むのではなく、限りなく民主主義を遵守するという考え方に変更する。自然法、すなわち科学に基づく形に社会を作り替えるという方向に。

 

児童ポルノ法の推進者たちは、児童が傷つき、自殺者も出ていると主張する。一方、児童ポルノ法で悪とされ、生まれながらに迫害されるものにも自殺者が出ているのだ。
私はこれを「戦争である」ととらえている。どちらが善か、という話ではなく、双方に犠牲者が出ているがゆえに終わりなき憎しみの応酬になる。
敵対者を皆殺しにするとして、この戦いの結末に何を目的とすべきだろうか?
それが科学だろうと思う。民主主義はもちろん、たとえ共産主義であっても、目的とするところは「平等」なのだ。一部の既得権益者を除けば、人類が求めている正義は「平等」である。
「そのような時代ではない」という主張する者もいるが、科学はこれに対しても対抗できる。科学は時代に不変なのだ。江戸時代の正義が今の時代に通用することはないが、江戸時代に存在した科学的法則は現代でも同一である。
科学はあらゆる時代において、あらゆる人間に対して平等に作用する。それを基準に物事をとらえ、実現することにこそ、社会を安定させ、平等という人類の正義を実現させることができるだろう。

 

少女を性の対象とすることは善か? という事に関連する事実は、「女性は10歳程度で子供を産むことができる」という事実と、「生命体は、単細胞生物に至るまで、子孫を残そうとする本能を持つ」という事である。前者は、例えばキリスト教聖母マリアなどは現代で言う少女の年齢でキリストを産んでいるわけであるから、少なくとも2000年は不変である。後者は地球の生命誕生までさかのぼり不変だろう。
「少女は性の対象とされることで傷つく」という主張はどうか、といえば、これは戦前までさかのぼれば覆ってしまう。少なくとも日本において、子供を産むことは女性にとって誇りであった。これは「菊と刀」という、二次大戦中のアメリカ情報局の分析をまとめた本に書かれている。「少女は性の対象とされることで傷つく」という主張は時代不変ではない。

 

つまり、少女を性の対象とするロリコンと呼ばれる、現在異常者とされる者は時代不変の存在である。たとえロリコンと呼ばれる人々を皆殺しにしたとしても、また生まれてくるだろう。これに対し、少女が傷つくことは社会システムによって変化するものである。幸せであった時代は存在するのだから。こちら側は社会システムを変化させることで苦しみを減らすことはできるはずだ。

 

もし少女が子供を産むことに誇りが持てる社会システムを再構築することができるなら、それは異常者として排除されているロリコン側が救われるだけでなく、若いうちに子供を持ちたいという、現在なんの保護もない少女たちを救う事にもなるはずだ。「菊と刀」の内容から考えれば、日本の少子化問題、ひいてはそこからくる人材不足や需要不足などの解決につながりうる。
逆に言えば、少子化からの国力の低下、福祉の問題など、これからの世代にのしかかる問題が、外国人勢力によってなされている可能性が否定できない。

 

児童ポルノ法の推進者たち、普通という名の選民思想家たちを絶滅させるという目標は変わらない。それが外国人による日本人への攻撃であれ、日本人が洗脳されて行っているものであれ、本人たちの欲望の結果であれ、一部の人々の幸せのために、生まれながら異常とされた人々を迫害していることには何らの違いはない。
「親心」もまた敵である。家族の幸せを願う心は「私利私欲」とまでは言えないかもしれず、生命体として自然な心かもしれないが、人類全体の幸せにつながらない、ごくごく局所的な幸せにしかすぎないからだ。
これらに対し、科学に従うなら、それは最終的に、共に生きる者の幸せに影響を与えることが可能になる、ように思える。自分の目的は自分を含む異常者たちを守ることであって、必ずしも普通の人々を苦しめることではなかったはずだから、科学に従い、異常者と共に生きようとする者にも幸福を与える、ということを目的にしてもいいのだろう。これは自然法に従い、相互の幸福追求のための共存を目指す契約、という社会契約論に何ら矛盾するものではない。

 

これから先、真実を探すこと、そして排斥者を滅ぼすことに自分は自分が持てるすべてを捧げることになるのだろう。

 

最後に

 

この文章を書いたのは、実験のようなものだ。
一つは、被害を与えるというやり方ではなく、情報や知識を与えるというやり方が、この戦いにおいてメリットをもたらすか? という事に関する実験である。もし効果があるなら、後戻りできない攻撃開始よりも知識を与える活動を優先的に検討しても良いだろう。自分で調べることができたものに関しては、このブログで公開していくつもりだ。

 

もう一つは、これを読んでるあなた、もしくは家族、友人などは、私が殺すべき敵であるのか、そうでないのか、という事を決定するだけの十分な情報を私は持っていない、という事だ。
もしここまで読んでくれた「あなた」が何らかの声を上げれば、何かが変わるかもしれない。私に敵対であれ、友好であれ、あなたの声が私まで届けばどちらであるかはわかる。そうでないなら、もともとの予定通り、無差別殺人が必要だろう、という結論になる。

 

それが精神科や私の周りの人々が私に要求する「世論を動かすこと」や「味方を作ること」と同じかどうかはわからないが。
それでも誰かに情報が伝わるなら、それは意味があるかもしれない。
個人で調べるにも限界があるので、調べられる人か、何かの情報を持っている人にまで伝われば意味はある。
それに、私の戦い、普通と呼ばれる人々と、普通でないとされる人々の間にある戦いは、もしかしたら日本という国の存続に関係する、外国人勢力との戦いかもしれない。愛国者の耳に届けば、彼らは何かを始めるのかも知れない。

 

だから可能なら、この文章について、あるいはそこから感じたこと、考えたことの拡散をお願いしたい。
何もしなければ、異常者として生まれた誰かが死ぬのだ。

 

あなたは何かをしてもいいし、しなくてもいい。あなたが何もしないと決めたなら、ここから先に起こる未来は、あなたの意思とは何の関係もないものになるだけなのだから。

 

無差別殺人を計画していたらユダヤの陰謀論を追うハメになった件(2/3)

史実と異なる教育・統制された情報

 

無差別殺人をやるとして、より効率的な攻撃をするために情報が必要となる。

民主主義の弱点は何か?
それを調べていくうちに、なぜ人を殺してはいけないのか? という事に対して、ある程度自分なりに納得する本に出会った。その本にはこんなことが書いてあった。

 

人は生まれながらに自由である。他人を害することができる自由が人間が持つ自然の権利である。しかし個人で実現できる危機回避や幸福追求には限界がある。その問題を解決するには群れを作るしかない。そのため複数の人間が互いの幸福追求のために共に生きるという社会契約を作った。この社会契約の下では人々は生まれ持った自然の権利を共同体に譲渡し、すべての人の幸福と平等のための法に服することになる。互いの幸福追求のための共存という社会契約が破られ、自然の権利を取り戻すまでは。

 

この内容には合点がいった。たとえ自分が無差別殺人を考えていたとしても、幸福追求の共存状態が保たれているのであれば、なにも死刑になるリスクを負ってまで無差別殺人を実行したいとは思わない。幸福追求の手段が社会によって奪われ、悪人とされること、すなわち共存状態が否定されることによって、その社会に生きる人間を害しようと考えるわけなのだから。

 

なぜ人々が社会に服従しようとするのかも、自分が無差別殺人を実行したいと考えるのも、矛盾なく一つの理論で説明ができる。社会との間に幸福追求の共存状態があるかどうかである。

 

納得はした。だが大きな問題にぶつかった。この本の題名は「社会契約論」という。なぜ人を殺してはいけないのか? という問題を10年以上調べてきたわけだけれども、この民主主義の原典の内容を説明できる人に出会うことが無かったのだ。親戚も、先生も、政治家も、テレビに出てくる有識者も。

 

なんで誰も知らなかったのか?

 

おかしいじゃない。戦後GHQは民主主義を日本に押し付けたはずだ。黒塗りにされた戦前の教科書の写真を見た事がある。GHQは洗脳教育を行ったはずなんだ。なぜ誰も民主主義の原典となる本の内容を知らないのか?

 

親が知らないのは「不勉強だから」で通じる。あるいはGHQが去ってから元の教育に戻したなら知らなくてもおかしくない。だが戦後を生きたはずの高齢者が知らないとはどういう事なのだろう? 直接GHQの洗脳を受けたはずだ。古い日本に戻したいから洗脳を信じなかった? 田舎だから洗脳が行き届かなかった? だとしてもマスコミに出る年配の知識人達が知らないというのはどういう事なのだろうか?

 

GHQは洗脳をした。それは間違いない。
でも洗脳されたはずの人々は民主主義を知らない。
洗脳された内容が民主主義では無かった?
洗脳の内容が確かに民主主義だったって、誰か確認した?

 

何かがおかしい。日本は民主主義の国と言ってはいるけれど、実際は民主主義の国なんかじゃないんだ。民主主義の理論、思想、哲学を知っている人がいない。自分が知る限り、コミックマーケットの米澤代表くらいか。

 

わいせつ物というのも何かおかしい。アメリカのアダルトビデオはモザイクなどない。日本にだけある。民主主義の国アメリカに無いものが、なぜか日本にはある。わいせつ物の取り締まりはGHQも行ったといわれるが、それはアメリカのルールではない。表現の自由を唱える人とそれに反対する人がいるが、民主主義なら表現規制を推進する人が出てくるのはおかしい。

 

学校で習ったガンジーの非暴力主義もおかしい。非暴力・不服従と言いながらインドは核保有国になった。非暴力とは矛盾している。ガンジー自身の著書を手に取ると、暴力でしか解決できないことは存在するとまで書かれている。相手を簡単に殺せるくらい強くなれば相手はわざわざ攻撃をしてこない。その状態で自らが暴力を振るわなければ戦争は発生しない。これがガンジーの唱える非暴力と不服従の両立である。核兵器保有と先制攻撃を行わないというルールはガンジーの思想そのものであるが、これを説明できる人がいない。

 

つまり学校の授業がおかしい。学校教育が洗脳で、事実と異なる方向に子供たちを歩ませようとしている。GHQ日教組やPTAを作ったというが、日教組やPTAもまた表現の自由に反対する勢力だ。だからやはり、GHQは民主主義ではない方向に洗脳しようとしている。「GHQは日本に民主主義を押し付けた」というのが、洗脳であり、事実と異なるのだ。

 

じゃあどうしようとしているのだろう?

 

日本人を植民地として支配し、奴隷にしようとしている?
それならなぜこんな回りくどい方法をとるのだろう? 占領したときに支配してしまえばよかったはずだ。民主主義など与えない、敗戦国の国民はこれから先奴隷であり続けるのだと、最初からすればよかったはずだ。

 

日本人を滅亡させようとしている?
それだって第二次世界大戦でやってしまえばよかったはずだ。無条件降伏など要求せず、降伏などさせず、最後の一人が死ぬまで原爆を落とし続ければよかったはずだ。日教組を使って天皇制や君が代に反対させるようなことはせず、降伏時に天皇家を皆殺しにすればよかったはずだ。

 

日本をアメリカの一部にしようとしている?
それこそ民主主義を与えない理由がわからない。
それだって、終戦の時にアメリカの支配下にしてしまえばよかった話だ。

 

終戦時は民主主義を与える洗脳だったが、GHQがいなくなった後、日本人の先生たちが古い教育に戻してしまった、あるいはアメリカの敵である共産主義者が日本の教育を乗っ取ってしまい、民主主義を教えなくなってしまった?
これでもやはり、高齢者が民主主義を知らないというのがおかしい。最初は民主主義が教えられていないといけない。アメリカに服従するのを拒絶する人が多かったとしても、全員が拒絶するのはおかしい。ギブミーチョコレートと言いながらチョコをもらって育った子供たちだっていたはずなのだ。だからやはり、GHQが民主主義ではない方向に洗脳していることになる。

 

日本人は何かに操られている。何によって、どこに向かって、ということはわからないけれど、学校教育によって嘘を吹き込まれて洗脳されているのは事実だ。学校教育に出てくる内容と、歴史的人物の著書の内容が異なっているのだから。
学校教育と、それと同じ事を言うマスコミもおそらく洗脳の道具なのだろう。そしてそれが可能なのはやっぱり終戦直後のはずなので、GHQあたりがかかわっているはずなのだ。ガンジーの非暴力・不服従が洗脳の内容に入っていることを考えると、終戦の時に今後戦争をしないようにという理由で洗脳が始まったのだろうし、奴隷として反抗しないような洗脳をしようとしているようにも思える。しかし奴隷化することが目的なら、もっと直接的・効率的なやり方があるはずなのだ。

 

わからなくなった。

 

自分は、自分に対して攻撃をしてきた日本人に対して、あるいは日本に対して、復讐しようとしていたはずなのだ。
でも本当に自分が復讐すべきなのは本当に日本人なのだろうか?
日本人は操られているだけなのではないか?
もし日本人を操っている糸が存在して、それを握っているのが日本人でないとしたら、反乱がおきたときどうするだろう?
操り糸を握っている側に攻撃が来ないよう、日本人同士をいがみ合わせて共倒れさせるようにするのではないだろうか?
だとすると、日本人に対して復讐しようとしている自分も操られている、ということになるのだろうか?
その状態で日本人に復讐を果たしたとして、それは本当に苦しめられてきたことに対する復讐になるのだろうか?
自分が苦しんできたことの原因、本当に日本人が原因だったのだろうか?

 

わからない。わからないなら調べればいい。何者かの操り糸を。

 

矛盾を調べてたどり着いたユダヤ陰謀論

 

幸いなことに、日本は本を買うことは禁止されていない。検閲の側が禁止されている。インターネットでは世界中の論文にアクセスすることも可能になった。だから調べることができる。そして調べるべきところは、GHQが何をやったのか? 日本の民主主義とは何か? あたりであろう、というのもわかっている。

 

ということで調べてみることにしたのだが、ちょっと想像とは異なるものが出てきた。第二次世界大戦当時、アメリカの情報局はソビエトをはじめとする共産主義のスパイが入り込んでいたというのだ。日本が宣戦布告する原因となったハル・ノート共産主義のスパイであるハリー・ホワイトという人物が作ったもの。原爆製造のためのマンハッタン計画ソビエトに筒抜けで、第二次世界大戦後すぐにソビエトは原爆製造を成功させ冷戦時代を迎えることになった。この辺の話はヴェノナという、ソビエトの暗号を解読した本に載っていた。

 

もしアメリカ軍を共産主義者のスパイが実質的に掌握していたのだとすれば、GHQが民主主義ではなく共産主義に仕向けようとしていた、という可能性が出てくる。戦後アメリカは共産主義と戦うことになるから、GHQアメリカ本国にそれと悟られないよう、日本を共産主義に仕向ける仕掛けを作らなければならない。こうなると、民主主義のように見える民主主義ではない何か、を作ることに意味が出てくる。

 

もしアメリカのふりをした共産主義者が日本人を植民地として支配し、奴隷にしようとしているなら、アメリカにバレないよう民主主義を与えないわけにはいかないし、アメリカの占領地にするわけにもいかない。終戦時のタイミングで滅亡させるわけにもいかない。

 

そこで民主主義を与えるという名目で、あるいはこれ以上戦争させないようにするという名目でGHQ共産主義者を教育(日教組)、PTA、マスコミ、司法警察あたりに配置したらどうなるだろう? アメリカ向けも含めて、GHQは民主主義を日本に与えた、と宣伝する。一方、民主主義のように見える民主主義ではない情報を日本人には与える。社会契約がどうこうなどという思想は与えず、多数決で決めればそれは民主主義である、といった具合に。PTAや警察、マスコミを使って表現の自由を奪ってさえしまえば、あとは教育とマスコミによって与えられる情報のみで判断する多数決によって、思い通りの政治家を当選させることができる。日本は民主的手続きによって共産主義を選択したのだ、となる。

 

証拠はないけど、これだとなんか辻褄は合いそうだ。少なくともアメリカが民主主義を洗脳しようとしたという話に比べれば。

 

これが正しければ、最初から日本人に民主主義の思想なんて与えられない。マスコミが選ぶ知識人だって民主主義の思想を語ったりしない。教育者も語らない。だから「なぜ人を殺してはいけないのか?」ということに答えられる人間が現れるはずがないのだ。教育やマスコミからの情報を離れ、自分で調べようとしない限り。そして同人文化のように、本当に民主主義を掲げるような人々があらわれれば、そちらの方が犯罪であると吹聴する。これは自分が人生で見てきた光景と一致する。

 

日本と連合国の終戦の条約がサンフランシスコ条約だけど、これにソビエトと中国、つまり共産主義国は合意しなかった。共産主義国は日本を敵であると認識している。日本人は終戦によって戦争は終わった、もう攻撃されることはない、と認識しているが、それは銃弾が飛び交っていないというだけで、実際は情報が飛び交っていて、日本人は一方的に攻撃されている、という可能性があるのかもしれない。

 

ただこれだといくつか矛盾が出てくる。一つは表現の自由を規制する政治家として保守派の議員が活動していたこと。例えば自民党や石原元都知事などだ。日本は核武装すべきと主張する政治家が中国やソビエトの仲間だと考えることができるだろうか? アメリカの犬と呼ばれる政党がアメリカと敵対する共産主義国の仲間だといえるだろうか?

 

もう一つは自民党が推進していた「新自由主義」だ。自分はちょうど氷河期世代に当たる。新自由主義は正社員と派遣社員とに労働者を分断し格差を広げた。これは富の平等を目的とする共産主義と真逆のように見える。悪い意味で資本主義の姿だ。そして新自由主義の中心にいた小泉元首相は靖国神社を参拝し、とても中国と親しいようには見えない。むしろアメリカのユダヤ人たちに忠誠を誓うような姿さえ報道されていた。それでも日本人を減らすという意味で、出生率を大きく引き下げたのは就職氷河期なのだ。日本人に対する攻撃が共産主義者からのものである、という仮説と矛盾する。

 

もし共産主義者と資本主義の新自由主義者、そして日本の政治家たちが仲間同士だったとしたら・・・そんな可能性はそれこそ「ユダヤ陰謀論」くらいしかないんじゃないか?

 

無い。
ユダヤ陰謀論などオカルトだ。くだらない。
だからまず、ユダヤ陰謀論は存在しない、ということを確認しよう。どうせでたらめな話はちょっと調べれば矛盾が出てくる。この可能性を先につぶしてしまえば、くだらないオカルトを調べるのに時間を取られることもなくなるだろう。

 

そう思う一方で、もしかしたらユダヤ陰謀論は存在するのではないか? という思いもあった。それは思い付きというか、直感的なものだ。「大量の難民を受け入れるEU」と「新自由主義という資本主義の自殺」からくる予想である。

 

ちょうどこのくだらない調査を始めようと思いついたころ、EUではドイツを中心としてシリアなどの難民を大量に受け入れ始めていた。まだマスコミは人道的とたたえていて、Youtubeだけが、このままだと白人はマイノリティになるという悲鳴を上げる動画を配信していた。

 

自分は無差別殺人を実行したいと考えている。それは障害者として生まれ、異常者として蔑まれたために、普通という人々を皆殺しにしてやりたいという復讐心だ。
もし国家を奪われ、国家を持つ普通の国々において差別を受けた民族がいるとしたら、その民族は普通の国々に対して復讐心を抱いたりはしないのだろうか?

 

自分だったらどうするだろう?
どうやって普通の国々に復讐するだろう?
そりゃあもちろん、普通の国々が大切に思っているものをゴミのように踏みにじってやりたいさ。
普通の国が大切に思っているものは?
そりゃあ国だろう。
もし自分なら、すべての国家の消滅を望む。

 

じゃあEUとは何だ?
各国家の独自の通貨を捨てて、ユーロという共通貨幣を作った。各国の間の行き来を自由にした。そして大量に難民を入れることで、人種というものもあいまいになっていく。じきに言葉も、教育もあいまいになっていき、EU全域が似たような感じだから統一した法律で管理しましょうみたいになっていくんじゃなかろうか。そうすれば、国家というものは消滅する。

 

もう一つ、新自由主義に対する疑問がある。資本家が富を独占し、労働者は富を奪われ、格差が広がっていくのは悪い資本主義の姿とも言える。けれどもこれは資本主義の自殺とも言える。
詳しく説明しているサイトはいくらでもあるだろうから雑に説明するけれど、資本主義国の富は返済可能な借金によって増大する。いずれ返すという契約で生まれる仮想の富は。実際に存在するかのように使用することができる。これによって国家が発行した通貨以上の富を資本主義国は持つことができる。信用創造と呼ばれる仕組みだ。返済可能な借金が行われ続ける限り、資本主義国の富は増大していく。これが返済不可能になると、仮想の富は消滅してしまう。信用収縮と呼ばれるもので、リーマンショックみたいなことが起こる。

 

では人は返せる借金をどういうときにするのか?
大きな金を動かす必要があるタイミングで、返せるあてがある場合だ。
例えば日本のサラリーマンなら、車や家を買うときに借金をしても、無期雇用があればいずれ返せるという予想ができる。たとえ給料が安くても、将来安定的に収入を得られることが確信できるのであれば、将来の返済計画を作り、借金によって大きな買い物ができる。

 

新自由主義による派遣社員への置き換えは、このシステムを破壊してしまう。いつ首になるかわからない派遣社員は住宅ローンを組めない場合が多い。将来返せるとは限らないからだ。新自由主義は資本主義の富の源泉である、返済可能な借金の機会を失わせる思想なのだ。

 

だから疑問が出る。なぜ新自由「経済」ではなく新自由「主義」なのか。
おそらくだけど、新自由主義は資本主義とは全く別のもので、資本主義の一形態ではない。

 

この資本主義の自殺とも言うべき状況が共産主義者が扇動した結果というなら納得できる。けれども自分が知る限り、これを推進しているのはイギリスなど資本主義国だ。資本主義のトップと言ったら、やっぱり何とか財団とかのユダヤ人ということになるだろう。

 

「大量の難民を受け入れるEU」と「新自由主義という資本主義の自殺」。これらの思い付きをもとに作り話をしよう。

ユダヤ人たちは復讐のためにすべての国家を消滅させようとしている。そのためにまず新自由主義を「これは資本主義です」と言ってばらまく。すると借金ができず国家が衰退するので、「労働力として外国人を入れましょう」とする。こうすることで民族というのを希薄にさせ、EUと同じように経済共同体を経て、国家というものを消滅させるのだ。世界から国家という概念はなくなり、他民族の世界が生まれる。

 

ユダヤ陰謀論というオカルトが存在しないと言うには、この作り話をぶち壊す証拠を見つければいいだけだ。

 

決定的な証拠を見つけることができないまま2年後、予想に反するものを見つけてしまう。

 

ロックフェラー回顧録という資産家の自伝にはこう書いてあった。
「私が世界中の仲間とともに一つの世界を作ろうとしていると主張するものがいるが、それが罪であるなら私は罪人であり、それを誇りに思う」と。

 

本人が書いた本人の考え。
これはどうやったら否定できるのだろう?

 

本人が書いたものではない証拠と本人の考えた別であった証拠がセットで出てくる場合か、書いたときに精神異常だった診断記録とかが出てくるくらいかな。あとは嘘つきの常習犯でそもそも信用できないケースか。でもそのようなものは見つからない。

 

どうもユダヤ陰謀論は実在するらしい。さすがに宇宙人とかが関わる話とかは信じられないので、陰謀論のどこまでが本当かは知らないけれど。

 

これどこまで調べりゃいいんですかね?
自分としては普通として生まれる事が出来なかった人々を攻撃された復讐がしたいだけなんだけど完全に迷子。

 

一旦まとめ

 

GHQが洗脳によって日本に民主主義を押し付けた、という話は矛盾している

GHQが作ったマスコミ・教育・PTAなどは、すべてオタク文化への表現規制を進めていた人々である

・復讐者の視点から考えると、国家を奪われたものは国家を持つものに対して復讐したいはずである。そしてロックフェラー回顧録には、一つの国家を目指すという事が明記されていた

 

無差別殺人を計画していたらユダヤの陰謀論を追うハメになった件(1/3)

今自分はユダヤ陰謀論を追いかけているのだけれど、どのような人生でそうなったのか、というのを今回はまとめたい。

 

世の中的には無差別殺人なんて事を考える人間は異常者で、その考え方は理解できないものであるらしい。でも自分はこちら側の人間であり、自分には世間の人々の考え方が分からなかった。

 

私は無差別殺人を実行したいと考えている。
日本社会は私を攻撃する敵であり、そこに生きる人々を滅亡させない限り、私の幸せは決して訪れないと信じている。
けれども迷いがある。
どこかのカルト宗教が「我々は洗脳されている」と言っていたが、それが事実であるかもしれない、という迷いだ。
それは勘違いで、日本人は洗脳されていないかもしれない。もしそうならここで迷った事は無駄であり、やはり私は無差別殺人に踏み切るべきなのだ。
しかし勘違いではなく、日本人を洗脳する何者かがいて、日本人同士がいがみ合い、殺しあうように仕向けているとしたら。私は何者かの思うままに日本人を殺し、死刑になる事になる。これはちょっと面白くない。どうせ死ぬならきちんと復讐を果たしたい。
しかし調べれば調べるほど、反撃すれば日本人が死に、何もしなければ自分や自分と同じのような日本人が苦しんで死ぬ、という計画が進んでいるように見えるのだ。 

 

無差別殺人を考えるアブナイ人ということで精神病院に放り込まれたりいろいろしたわけなのだけれども、自分が体験したこと、自分が調べたことを話していくと、どうも「世論を動かすべき」という意見を耳にする。「仲間を作るべき」とも。それが何なのか、何か意味を持つものなのかはわからないけれども、自分が経験したこと、自分の考え、自分の知識について文章化してみることにした。この長文を読む人が誰かいるのかはわからないけれど、もしこの文章に何らかの価値があると思うなら他の人に紹介してほしい。世論が動くことになるのかどうか、正直わからないけれど、結果的に何かプラスの結果を生み出せるなら意味があるのだろう。もしこの文章を読んだ人が、今の社会よりも私が言っていることの方が正しいと判断したなら・・・その時は、あるいは、無差別殺人を実行する意味が失われるのかもしれない。
それに、この国では犯人の生の言葉は人々には伝わらない。警察やマスコミを通じて歪められた情報のみが伝えらる。もし本当の動機を後世の人々に残そうと考えたら、それは無差別殺人の実行前に公開しなければならない。だから、自分の考えを文章化することには意味があるだろうと考えたからだ。

 

そんな訳で、何かが起こる事を期待して情報を提供する。頭の体操がわりに付き合ってもらえれば幸いである。

 

大きく3つの内容になる。
1つ目は私の人生と考えている事。つまり「何故無差別殺人をしようと考えているのか」について。普通の人間には、これがわからないのであろうから。陰謀論の話を知りたい人は退屈だろうから飛ばしてもらっても構わない。その前段階だから。
2つ目は日本の教育の矛盾について。本来存在していなければならないものが存在していない。
3つ目は、自分が社会を滅ぼすべきであるという考えに至った判断に、ユダヤ陰謀論(の一部)が関わっているかもしれない事について。この内容は正直自分でも半信半疑だし、証拠がそろっている訳ではないけれど、集めた資料に矛盾は無いし、おおむねそこから推測出来る事が今世界で起きている、ように見える。そしてそれは、自分が、そして日本人が(正確には他の国の人々も)攻撃される理由にもなるのだ。

 

まずは異常者である自分の人生から語ろう。

 

他人の死を望む人間という生き物

 

自分と普通と呼ばれる人々はどうも考え方が違う、ということはわかっている。でも自分の何が間違っているのかは正直わからない。自分には普通の人々はありもしない妄想を抱いていて、同じ妄想を持てない人間を異常者として排除しようとしているように見えるのだ。

 

なぜ世間一般の人は普通でありたいと願うのだろう? 世界的な発見や芸術作品を作った歴史的人物は普通などではなかったはずだ。

 

なぜ常識というのを崇拝するのだろう? 江戸時代の常識が今通用するだろうか? 明治は? 戦前は? 高度経済成長期の常識は? そんなあやふやなものをなぜ正しいと考えるのだろう?

 

なぜ道徳なんてものを信じるのだろう? 道徳の内容を網羅した辞書があるだろうか? 他人が信じる道徳と自分が考えている道徳が同じである保証がどこにあるのか? 道徳を見たことがあるか? 写真がある分、UFOとかの方がまだ信じられるんじゃないの?

 

なぜ法律が正しいと考えるのだろう? 科学的に正しいと証明された訳じゃない。政治家たちは法律を悪用して私腹を肥やし、企業は自分の利益のために他人を犯罪者扱いするための立法を推進しているばかりじゃないか。人々から徴収した税金は一部の人の贅沢に流れ、足りない足りないと更なる増税を進めるだけだ。

 

なぜ科学的に証明されていない善悪などというものを絶対的なものと信じるのだろう? それは教祖様の言うことが絶対という狂信者と同じじゃないか。この宇宙を支配しているのは、人間が勝手に決めた善悪なんかじゃなく、原因と結果の関係であるはずだ。

 

なぜ誰も疑わないのだろう?

 

なぜ人を殺してはいけないのだろう?

 

もし本当に神様が存在して、殺人が許されないことなのだとしたら、それを実行できないように人間をお創りになられるはずだ。神など存在しないとしたら・・・この世にある正義とか善悪というのは、いったい何を根拠にしているのだろう? 善悪とは宗教から発達した考え方のはずだ。神を信じず、科学も信じないとするのなら、「普通の人々」は、一体何を信じているのだろう?

 

こうした事が子供の頃からわからなかった。

 

なぜ人を殺してはいけないのか。

親に聞いても「そんなの当たり前だ」と言われ、あるいは「他人を殺すと死刑になるから」などという説明だったが、自分には納得出来なかった。自分と同じように考え、実際に無差別殺人を起こす人間は存在して、マスコミを賑わせた。「なぜ人を殺してはならないのかがわからない」という犯人に対して、コメンテーターや知識人達は「理解できない」と口をそろえた。

でも自分には、人間という生き物は他の人間の死を望む生き物にしか見えなかった。社会は公害・薬害によって他人の命を脅かしたり、過労死する労働者に何らの手も差し伸べず、外国に目を向ければアメリカとソビエト核兵器を突きつけあっている。交差点での巻き込み事故死はなくならないのに、車と歩行者の信号が同時に青にならないような工夫もしない。技術的には可能であるはずなのだ。
子供が子供を殺すような犯罪が起きて、犯人は「なぜ人を殺してはならないのかがわからない」と口にするようなこともあった。そのような人間に対しては、世間は「死刑にすべきだ」と口をそろえる。
子供心にちょっと周りを見渡しただけでも、とても人間という生き物は他の人間の命を大切にするような生き物には見えなかった。

 

そして何より、子供のころの自分の周りには「死ね」と言ってくる子供ばかりがいた。

 

いつから、なぜ、そうなったのかはわからない。はじめは子供にありがちなバカなどの悪口だったように思う。しかしいつしか自分の言葉は無視され、「お前の触るところは腐る」などと言われるようになり、他人の机などに触れば殴る蹴るを受けるようになっていた。

後に自分以外の人間が同じような目にあっているのを見る限り、それは障害者にたいして行われるものだった。そして自分は生まれつき心臓病だった。
社会や先生は障害者は助け合うものと口にしてはいたけれど、そのようなことは実際は起きていない。

道徳では、力で勝てないなら頭脳で勝ち見返してやればいじめられなくなる、ということになっていた。しかし、例えばテストで、普通の人が1つのテストを説く間に2つのテストを両方100点で終えるレベルになってさえ、何も変わったりはしなかった。

先生に頼れば何かが解決するかと言えばそのような事も無かった。親に助けを求めればお前が悪いのだろうと突っぱねられた。

この国の正義は民主主義だそうだが、みんなのために、という言葉は自分の意見をつぶすために使われるものだった。

 

人は人を殺したがる。これは純粋に自分の目の前で発生した事実だ。

人を殺してはならない、という言葉を言う人がいたとしても、それは現実とはマッチしない。ただの妄言だ。

少なくとも、自分が見た人間は、他人の死を望む生き物である。

そして道徳も意味をなさず、多数決は他人の死を望む人々の意思を肯定するために使われる。

 

死ぬようののしられ、暴力を振るわれる日々から逃げるために自殺するか、あるいは殺人は悪であるという現実離れした考えを捨て、生きるために相手を殺すのか・・・これが多分、無差別殺人を考えた人生で最初のタイミングだった。最終的に他人のために死ぬより、他人を殺してでも生きる側を選んだ。生きるために必要であれば他人を殺す。たとえそれが友人であれ、親であれ。それが生きるという選択、生きるということそのものである。
人を殺してはならない理由に「自分が殺されたら嫌でしょう?」というのがあるけれど、殺されるくらいなら殺してやる、というだけの話だ。

私は普通で無い人間を迫害する、普通という名の選民思想を破壊するために、自殺という逃亡ではなく、殺人鬼という戦士として生きる。これが自分がいじめを受けた結果として、自分が選び取った思想、人生である。

 

つまり、他人を殺そうと思う、ごくありふれた「人間」なのだ。

 

社会や道徳が正義であるという考え、人の心と呼ばれるらしきものはこの時に捨てた。現実に合わないくだらない妄想に付き合っていては命を維持できない。この社会の正義とは、私の命を奪いにくるものだから。
もう一つの理由は、いじめを行う人間を殺していけば、いつかはいじめを駆逐することができる、という事実である。もちろん社会は普通の人々を守るわけだから軍隊を相手にすることになるし、素人が戦いを挑んで勝てるのかという問題はある。また、いじめを行う人間を駆逐した結果、地球上で生き残る人間が自分だけ、という可能性もある。それでも普通の人々を力づくで絶滅させるというのは、「暴力では何も解決しない」などという言葉よりよほど信頼できる未来である。なんの結果ももたらさない、非暴力の社会的正義など、問題に立ち向かうための障壁でしかなかった。生きるという選択をするには、どうしても、未来は今よりもよくなるという希望が必要であり、その根拠となる道筋が必要なのだ。

 

私は普通の人々が信じる正義を認めない。
現実に何の効果ももたらさない道徳などというものに耳を貸すことなどない。
それらを滅ぼすことこそが、私の命そのものである。

 

それでもその時は実行まで踏み込まなかった。

周りの人間は子供だから社会の正義を実現できないだけ、という可能性もある。だから一旦は観察者となることにした。普通で無い人間を迫害し、踏みにじるのは未熟な子どもだからである、ということであれば、それは教育の問題であって社会や人間の問題ではない。しかし大人もそうであるというのなら、この社会こそが私の滅ぼすべき敵であり、あるいは人間という生き物こそが自分が滅ぼすべき敵である、ということになる。
障害者として生まれたものは自殺に追い込まれなければならないというなら、そのような社会は私の手で滅ぼしたいのだ。これから先に生まれてくる普通ではない人々のためにも。

 

いわゆる社会的正義を捨てるのと同様に、命を維持することに役立ったものがTVゲームだった。田舎の遊びと言えば複数人で身体を動かす、鬼ごっこなどをはじめとしたものだが、普通でない者への迫害が始まってからは他の人々と共にある事は苦しみでしかなく、迫害が発生する前でも心臓病であるために楽しみを得ることは出来なかった。しかし一人で遊べるゲームであれば楽しみを得ることが出来る。

貧乏な家庭に生まれたので、多くのゲームを買ってもらえるわけではなく、既に飽きているゲームをやり続けることになった。新しい物好きの父親が買ってきたものだ。それは必ずしも面白いものではなかったけれど、少なくともゲームをやっている時間だけは苦しみを忘れることができた。生き続ければもっと楽しいものに出会えるかもしれないという希望も持てた。

ゲームは普通でない体で生まれた人にも楽しみを与えることができる。たとえ世界で誰も味方になってくれなくとも、苦しみから身を守る時間を稼ぐことができ、未来への希望を持つことができる。

このゲームというものは、社会の正義と相反するものであるらしかった。ゲームには意味がない、健全な教育に悪影響である、と言われていた。だからこそ、むしろ自分にとっていとおしいものとなった。

 

こうして人生で2つの目標を持つことになった。1つはゲームクリエイターを目指す道。もう1つは普通という選民思想を持った人々に復讐する道。もっとも後者は普通でない人間への迫害が再度起きなければ不要なのだけれど。

自分の人生は、ゲームクリエイターという、普通でない人間を迫害から守る盾となること、あるいは普通でない人間を迫害するものを滅ぼす剣となること、ということになる。どちらになるかは、普通でない人間に対する迫害が子供たちに限定のものであるか、そうでないかによって決まる。

 

こうして自分の人生、命は、他人への殺意と憎しみによって支えらることとなった。しかし観測者を続けていくうち、別の感情も生まれることになる。今まで無差別殺人を実行していなかったのは、ここで生まれた「社会的正義に服従することによって平等を実現する」というブレーキがあったからであり、今無差別殺人を実行しようと考えるのは、このブレーキが社会によって破壊されたからである。

 

オタクとの出会いによる「社会的正義への服従」とその破壊

 

自分が憎しみや殺意とは異なる感情を持ったのはオタクと呼ばれる人たちに出会ったからだ。漫画やアニメの女の子を好きだと言い、少女コミックを買いに走る姿は奇妙で異常にも見えたが、それまで見てきた「普通の人々」とはあまりに異なっていたために歩調を合わせてみることにした。ゲームクリエイターを目指すのにオタクの人々は近い存在だったし、仮に自分も二次元の女の子に恋することになったとしても、それは人間ではないので復讐することになった場合でも、何の障害にもならないからだ。

 

そうしてオタクと呼ばれる人々と行動を共にしているうち、オタクの先輩に「〇月×日にここに集まること」と指示を受けた。何の前情報もなく指定された場所に行くと、そこは同人イベントだった。知らない人のために言うと、アマチュア漫画家が自費出版した本を展示し販売するイベントになる。あくまでファン活動ということで、特別許可を取らずに既存のアニメや漫画のキャラクターを描いていたりもする。
そしてこのイベントには普通でない人々を排除する壁がなかった。いわゆる18禁と呼ばれる性的表現はもちろん、同性愛や近親相姦のような社会的に忌避される表現さえ、同人イベントでは肩を並べて展示されている。そこに迫害は存在しない。

 

これはどうも、「表現の自由」というのを正義としている集団であるらしかった。確かに民主主義の正義はそうだ。そして日本は民主主義の国だ。表現の自由、そして平等。オタクと呼ばれる人々は、どうもそれを実践している人々であるようだ。いつしか自分はその文化に夢中になった。

 

これがおそらく、自分にとって人生で初めて、普通の人々を滅ぼすこと以外の希望が生まれたタイミングだと思う。

同人オタクと呼ばれる人々は、民主主義の思想と、障害者など普通ではない人々とも平等に接するという、社会が「正しい」と口にする思想を体現する存在である。

 

それでも社会はオタクと呼ばれる人々に敵対であった。マスコミはオタクが犯罪予備軍と呼び、政治家たちは同人誌を有害なものとして排除しようとした。「いじめは悪」「障害者は助け合わなければならない」「日本は民主主義の国である」と口にしながら、一方で普通でない人間として生まれてきた人間の安住の地を脅かすのが、この国の正義であった。

 

なぜ同人文化のオタク達は、社会から悪とののしられながら、民主主義や障害者を含めた平等という社会の正義を実現しているのか?

同人文化の中心はどのようなものかを知りたくなり、同人文化の頂点ともいうべきコミックマーケットに親戚を頼りながら行った。その時、オタク達の敵、同人文化を脅かす存在を知る。それが児童ポルノ法だった。

 

本来ポルノに出演させられた少女を守るため、という名目の法律であったが、同人誌が児童ポルノにあたるというように拡大解釈され、アマチュア漫画家への弾圧、ひいては同人文化そのものへの攻撃となっていた。

 

コミックマーケットの代表であった米澤代表は、政治家達と対立しながら表現の自由のために戦った。児童ポルノロリコンという表現もまた異常者のものだ。それを守るために行動する代表者の姿は、やはり自分にとって奇妙であり興味を抱くものであった。尊敬もする一方で、社会への不信は高まる。なぜ障害者を救おうと口にする一方で、異端者に居場所をあたえ守ろうとする人間たちを攻撃するのか。

 

異常者として生まれた自分にとって、それを迫害する社会の正義を養護すべき理由はない。日本の社会は普通でない心身を持って生まれた人間を迫害する敵であり、その社会を正義と信じる人々もまた敵なのだ。オタクと呼ばれる人々と科学を除いて。

一方で米澤代表はそのような社会との共存をオタクたちに強く訴えた。他人に迷惑をかけるな、ルールに服従しろ、社会に対してオタクは悪と呼ばせる口実を作るな、と。暴力に訴えてはならない、それでは相手の思うつぼだ、と、弁護士などと共に訴えた。

 

結局米澤代表の判断は(本心はわからないが)、児童ポルノ法に関して実写に関しては実在の児童の問題であるから規制を受け入れ、マンガに関しては規制の対象外とする、という形で合意することだった。

こうした非暴力、社会的正義に対する服従の姿勢に対して、自分の中では不満と不安はあったが、いったん受け入れることにした。自分の主張は迫害者を殺さない限り迫害は止まらない、というものであるが、同人文化が異常者たちに居場所を与え、笑顔を供給していたことは事実であるから、実績がある以上、その人物の言には聞くべきものがあるという判断をした。

 

この時に感じた不安は、5年以上後に的中することになる。

 


オタクという奇妙な生き物との出会いと同じころに、インターネットというものに触れた。まだパソコン通信を行っていたオタク達がそのまま移行したということもあってか、インターネットは同人文化との親和性が高かった。

 

変わった表現者を探していくうち、「自分は妊婦フェチだ」と名乗る人を見つけた。心臓病として生まれ、いじめを受けてきた自分としては、自分は異常者だと名乗ることは自殺行為だと考えていた。しかし彼がどうなっていくのか見ていると、同じような迫害には合わなかった。それどころかたくさん同じような仲間たちが世界中から集まり始めた。

 

なぜそうなるのか?同人文化がそうだからか?インターネットがそうだからか?
少なくともインターネット上でのコミュニケーションは距離が0になる。加えて匿名性がある。本人を特定されないという守れられた状態のまま、同じ異常者を探すことができるのだろう。

 

連絡を取ってみることにした。学校のように与えられた環境ではなく、見ず知らずの人間とコミュニケーションをとるのはおそらくこれが最初だった。人間は敵。だがそうではない人間もいるのかもしれない。異常者同士が手を取り合うことが、あるいはできるのかもしれない。絵を描き「私も妊婦フェチです」といえばおそらく対話ができるのでは、と考えた。これはうまくいき、快く迎え入れられた。ネットの向こうのクリエイターと親交を築くことができたこの経験は、見ず知らずの人との間に初めて友好的な関係を得ることができた初の例である。

 

インターネットと同人文化、ここには異常者と呼ばれた人々にとって、幸せに生きることができる「可能性」がある。
この人々の側が増えれば、異常者と呼ばれる人々が幸せに生きることができる社会を作ることができるだろう。
もし普通でない人間を迫害し、踏みにじることが、未熟である子供たちに限定されるのであれば、この試みはおそらく妨害はされないであろう。もしそうなら、無差別殺人というゴールを目指すのではなく、オタク達とともにあるという「より道」を選んでもいい。

 

ここから自分にとって、暴力ではない、普通の人々との戦いが始まる。普通ではない人間が手を取り合い、数を増やし、普通ではない人間が普通と呼ばれる人々に滅ぼされることが無いところまでの地位を獲得するという戦いである。

 

教育が、あるいは同人文化を動かしている人間が言うように、暴力を伴わないやり方で自分を守ることが本当にできるのか?
疑問に思いながらも、異常者とされる人間の布教活動を始めた。
需要と供給が無いところに、需要と供給を生み出す活動である。

 

簡単な道ではない。クリエイターたちは容易には増えなかった。自分側の要求をただ押し付けても結果は出ない。常にクリエイターの利益になる行動を行って初めて、クリエイターたちは徐々に増え始め、それに伴いファンたちも増え始めた。利益が出なければ創作活動は続けられないのだ。

 

そうした仲間の一人が、妊婦フェチを中心とした普通ではない表現者たちの同人イベント「アブノーマルカーニバル」を開催した。そこで表現者たちは思い思いの「好き」を表現した。そのすべてを理解できたわけではなかったけれど、普通ではない人間が笑顔になって生きられる空間はうれしく思えた。それは間違いなく、普通ではない人間が幸せになることが可能であるという希望を体現したものだった。

 

やがて人づてに「アブノーマルカーニバル」の情報は伝わっていったらしく、東京のイベントに名古屋から人がやってくるような状態になっていた。

 

だがそのイベントは行政によって中止されることとなる。
それはかつて様子見をしていた「児童ポルノ法」の推進者たちが中止に追い込んだという話だった。
アブノーマルカーニバルに集まっていたのは、妊婦フェチを中心とした特殊な嗜好を持ったアマチュア漫画家たちとそのファンである。実在の児童はもちろん、「少女を性の対象とした表現」すらそこには無かったのだ。だからこの行動はあまりにも予想外だった。

 

現実に傷ついている児童もいる。だから暴力を抑え、社会に従おう、という意見に耳を傾け、暴力以外に力を注いだ結末は、社会によって希望を奪われるというものであった。

 

異常者として生まれても幸せに生きることはできる、という希望は奪われた。しかしそれは自分だけのことではなかったのかもしれない。ネット経由で目にしたのは、そうした異常な表現者の中から、自ら人生を終える決断をしたものが出たという話である。
名前は知らない。顔も知らない。けれどもそれは自分と同じ「普通ではない」人間として生まれてきた仲間のはずだ。相手は漫画家として、こちらはファンとして、顔を合わせたことがあったのかもしれない。

 

結局自分は何をしたのか?
社会に服従するという言葉に耳を傾ける一方、ロリコンと呼ばれる普通でない人々に背を向け、迫害される苦しみを知りながら、普通の人間と同じように排斥に加わり、そして死へと追いやってきた。それだけだ。

 

そして普通ではない人間が幸せになる可能性を潰したのだ。間接的ではあるが。

 

自分は何のために生きてきたのか。なんのために自殺ではなく戦うために生きるという選択をしたのか。
それは普通と呼ばれる人間と戦うためではなかったのか。
普通ではない人間を守るためではなかったのか。

 

だから。
自分は「暴力を振るうべきではない」という声に耳を傾けるべきではなかったのだ。現実に傷ついている人間がいるからという理由で、普通ではない人間を排除しようとする人間を許すべきではなかったのだ。自分が現実の少女との関係を望んでいないという理由で、ロリコンと呼ばれる人間が攻撃されていることに見て見ぬふりをすべきではなかったのだ。同じように苦しめられたくないという理由で、彼らを擁護しないという行動をとるべきではなかったのだ。

 

オタクの表現が守られさえすれば、それ以外の異常者・異端者が排除されてもよいなどと考えるべきではなかったのだ。

 

だから自分は許さない。普通という選民思想の持ち主ももちろんそうだが、何もしなかった自分自身を許さないのだ。自分の生きる意味のために。自殺ではなく、生きて戦うのだという信念のために。

 

オタク達が手を汚す気がないというのであれば自分が迫害者たちを殺害するしかないのだろう。元々自分はそれを望んでいたはずだ。たまたまオタクという集団に出会ったから、血を流さない方法でも普通でない人間も幸せになることができる、という幻覚を見ていただけで。

 

こうしたことがあって、無差別殺人を志すことになる。それはオタクに対する表現規制によっておこるものではない(きっかけではあるかもしれないが)。殺意が生まれたのは、障害者として生きるか死ぬかのところまで追い詰められたときに、あきらめて死ぬのではなく、生きるために戦うことを決意したときに生まれたものだ。
オタクと呼ばれる人々が見せた幻影は、社会とともに生きることで話し合いによって解決することができるということや、異常者でも幸せになることができるというものだ。普通と呼ばれる人々は、それがただの幻でしかないことを教えてくれただけである。

 

ごく限られた人間の幸福のために他人を自殺に追い込む「善人」たち。
これらを滅ぼし、異常と呼ばれる人が笑顔になれる未来を作るために、私は「悪人」になるのである。

 

自分が行おうとしている無差別殺人とは、障害者やオタクと呼ばれる人々の中の、他に居場所がない人々、あるいは児童と性的な関係を持つ心を持って生まれたような「普通でなく生まれた人々」と、普通という選民思想の間にある戦争なのである。だから厳密には無差別ではなく、普通と呼ばれる人々が殺害の対象ということになる。それが「敵」なのだ。少なくとも、児童ポルノ法を掲げた者たち、その擁護者たちは殺害の対象とすべきである。それがいかなる理由であれ、普通でない人間を排除し、普通と呼ばれる選民だけが幸福になればよいという集団に他ならないからだ。そして民主主義の国で児童ポルノ法が制定されたということは、この国においては大多数が普通でない人間を排除することを正義であると考えているということである。

 

攻撃の効率性 ― なぜ「無差別」殺人でなければならないか?

 

この社会は私が滅ぼす。普通の人々は絶滅させる。だが普通の人々に対し、彼らの言葉を借りるなら「異常な人間」は少数だ。もし戦うなら単純な戦い方では負ける。9対1が8対0になるだけだ。もっと効率の良い戦い方を必要とする。

 

無差別殺人という手段は、少なくとも単純な戦い方よりは優れている。無作為に、大量に命を奪うことができるなら、9対1は9対1のまま数を減らしていくことができる。引き分けには持ち込めそうだ。もちろん無差別ではなく普通の人々だけを狙い撃ちできるならそれに越したことはないが、残念ながら心の中を覗くための装置は発明されていない。

 

異常者側で徒党を組んで戦おうというやり方は困難だ。戦っても勝てない、というのが見えているためか、戦おうという意思を捨ててしまうらしい。

 

治安部隊の装備には詳しくないが、少なくとも銃と防弾チョッキくらいは身に着けているだろう。それに対し一般人は銃を手にすることすらできない。人数だけでなく装備面でも劣ることになる。治安部隊を滅ぼすことが目的ではないけれど、治安部隊の目的が「普通の人々」を守ることにある以上、「普通の人々」を滅ぼそうとするなら治安部隊との戦闘は避けられない。人数も装備も上の相手に対し、どのような防御が可能なのだろうか。

 

しかし治安部隊には制限がある。まだ何もしていない人間を攻撃することはできない。一撃目は治安部隊に敵対する側が実行することになる。この一撃目で勝てるなら防御を考える必要が無いし、反撃されればどうせ勝てないのだから防御を考えても無駄なのだ。だから一撃目をどれだけ強力にできるかが勝負になる。

 

最初の一撃を強力にするためにも無差別であることは都合がいい。敵味方を丁寧に区別する戦い方では、どうしても攻撃範囲を狭めなければならない。無差別の場合、爆発物や車で突撃などより広範囲に攻撃を仕掛ける手段を選択することができる。なんならダムに毒を流すようなやり方だっていい。

 

ではどこを攻撃するのが効率的なのだろう? なんの権力を持たない一般人を攻撃しても影響は知れている。もっとも人が死ななければ行政は動かなかったりするから、一般人を殺すことも間接的には意味があるはずだが・・・

 

女性団体などを攻撃することには価値があるかもしれない。異常者をたたいているのは連中なのだ。政治家を攻撃することが効率的かもしれない? 実際に法律を定めているのは彼らだ。しかし民主主義の国では、政治家でさえ「民意」に服従しているだけかもしれない。であるなら、やはり、民意を生み出している「普通の人々」を攻撃することが効率的という事になるのか・・・

 

日本は民主主義の国だ。ということは、民主主義国家とは何か? 民主主義国家の弱点はどこにあるのかを調べることがより効率的な攻撃を可能とするだろう。そして暴力は悪だという思想も、どのような行動パターンになるのかを予想できれば、裏をかく攻撃方法が見つかるかもしれない。

 

そう考え、民主主義や非暴力の思想を調べ始めたが、ここからおかしな方向に話が進み始める。いつか復讐の役に立つかもしれないと必死に学校で学んだ知識は、史実と異なっていたのだ。自分が日本人に対する攻撃をためらうのは、日本人が洗脳されているかもしれない、という可能性からである。つまり日本は民主主義ではなく、「民主主義である」という言葉が洗脳であり、教育が洗脳装置であって、科学に反するものを正義であると信じるように誘導されているという可能性について。

 

一旦まとめ

 

・心臓病という異常者として生まれ、いじめを受けたことにより、普通という選民思想に対する殺意が生まれた
・オタクと出会い、彼らの同人文化には異常者として生まれても幸せになることができる可能性があると判断した
・同人文化により幸せになることができるという可能性は「児童ポルノ法」を掲げる人々によって滅ぼされた。「暴力を行わない事」「社会のルールに従うこと」はこの防御に役立つことはなかった。
・普通という選民思想に対する殺意を持って、普通の人々を殺害する。少なくとも「児童ポルノ法」を掲げる人々が異常者として生まれた人々の敵であることには疑う余地がない。すでに自殺者が出ている。これは「生き残ること」を目的とした戦争である。

 

戦時戦略情報局OWIが分析した戦時中の日本

第二次世界大戦当時、アメリカはどのように日本を分析していたのだろうか?
当時アメリカには2つの情報局があった。一つはプロパガンダや暗殺など裏の情報工作を行うOSS(戦略事務局、後のCIA)と、学術的調査などを行い後のプロパガンダなどへの利用を目指す表の情報局OWI(戦争情報局、国務省に吸収)がある。ここでは、OWI日本班チーフであったルース・ヴェネディクトによる分析を紹介しよう。


ルース・ヴェネディクトの分析は、The Chrysanthemum and the Sword (邦題:菊と刀)の名で終戦の3年後に出版された。この為現代では、第二次世界大戦当時、アメリカは日本をどのような国だと分析していたか? という事を確認する事ができる。この分析が、後の日本に対するプロパガンダに応用されたと言われている。

なぜ終戦時、天皇は殺害されなかったのか? 戦前の日本とはどのような国だったのか? 政治家は民意を無視することがあり、また表現の自由を巡る論争がよく起こる。本当に日本は民主主義なのか? といった疑問を考える助けになれば幸いである。

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ルース・ヴェネディクト

西洋人に理解できない矛盾した民族

菊と刀


ルース・ヴェネディクトは日本を訪れたことは無かったが、文化人類学という学問の観点から日本を分析した本は、この様な内容から始まる。


ある国民が類例のないくらい礼儀正しい国民であるという時、「しかしまた彼らは不遜で尊大である」とつけ加えることはめったにない。

ある国民が従順であるという時、同時にまた彼らは上からの統率になかなか従わない、と説明したりはしない。

彼らが忠実で寛容であるという時、「しかしまた彼らは不忠実で意地悪である」と言いはしない。

美を愛好し、俳優や芸術家を尊敬し、菊作りに秘術を尽くす国民に関する本を書く時、同じ国民が刀を崇拝し武士に最高の栄誉を帰する事実を述べた、もう一冊の本によってそれを補わなければならないということは、普通はないことである。


このように日本人にとっての「あたりまえ」は矛盾に満ちており、西洋人にとって容易に理解する事は出来ないものだったようだ。


それでも戦争においては敵国人を理解しないわけにはいかない。相手がどのように考えて戦うのか? というのももちろんそうだが、捕まえた捕虜をどのように扱えば反乱を起こさないのか? どのような打撃を加えれば相手は負けを認めるのか? 占領した後、どうすればその国民を統治する事が出来るのか? を考えなければ戦争に勝利はできないからだ。


もしアメリカが皇居を爆撃し、天皇を殺害した場合、日本人は敗北を認めてアメリカに服従するのか、それとも最後の一人になるまで戦う決意をさせる事になるのか。


捕虜にした日本人のうち戦争に賛成したものは、天皇陛下こそが軍神であり戦争に導いたのだと主張する。しかし戦争に反対の姿勢だった日本人は、天皇陛下は戦争には反対であったが、東条英機にだまされたのだ、と主張する。
 しかしどちらの捕虜であっても、ひとたびアメリカのために働くと言えば、それまでの信条が無かったかのようにアメリカに尽くすのである。


日本人という矛盾に満ちた民族を分析しなければ、どのように戦争を終結させるのかを決めることができなかった。
菊と刀は、分析に失敗すれば追加で万単位の命が失われる可能性のある重みを持った、「日本人とは何か?」に関する研究を記した書である。


天皇をカミとする、特権付きの階級社会

ジャパン・カースト

7世紀頃、仏教が伝わる頃から、第二次世界大戦まで、日本は常に階級社会であった。例えば家族の中では父が階層の頂点である。日本全体の階級の頂点が天皇、神であり上である。


相手の階級が重要なため、相手の呼び方が目上であるかどうかによって変化する。英語はYouしかない。


他の国々でも民主主義になるまでは階級社会であったが、日本の場合は各階級に特権が存在する、というところが他の国と違うところである。例えばエタと呼ばれる被差別階級は死刑囚の埋葬、獣類の皮剥ぎ、皮革製造などを職業としていたが、これらは逆に、エタ以外の階級の者が就くことはできない特権であった。


特権を侵害する場合には、たとえ階級が上の人間に対しても公然と抗議する。このことが、 従順でありながら上からの統率になかなか従わない 、という文化が培われたと考えられる。


恩に支配される、名誉を求める民族

恩と義理

【善悪判断の中心となる恩】

日本人にとっての恩は、アメリカ人にとっての負債のようなものであり、返済しなければ債務不履行のような制裁を受ける。この「恩」は親や先生、恩人、世間、社会、そして天皇から与えられるものであり、それを返済することが美徳とされる。大切に育てられ、教育を受け、幸福に暮らしていられるのはすべて世間のお陰である、という考え方であったようだ。「恩を忘れない」という事が日本人の習慣の中で最高の地位を占める。カミカゼや玉砕は、天皇に対して無限の恩を返済する行為である。
西洋にはそのような「恩を返す」という考えがなく、日本人から見れば「正義ではない」と考えられていたようだ。


この「恩」という概念によって、日本人は西洋の民主主義とは異なった善悪判断、自尊心を持つと分析されている。


民主主義の中心的な考えである「人権」は「生存権」「自由権」が含まれるが、アメリカ人にとって法律ができることは、個人の自由に対する干渉として国中どこでも憤慨されるものである。自由への干渉に対し、どれほど強く反対しても、自尊心の為に当然許されるべきとアメリカ人は考える。
しかし日本人は法律に反対する事を遵法精神を欠く国民であると考える。日本人は恩恵を受けた人に恩返しをするという事に自尊心を持つ民族だ。世間からの「恩」を忘れ、世間や社会に反対することは「恩知らず」ということになる。アメリカ人はこのような日本人を、民主主義の観念が欠如した屈辱的な国民であると判断する。アメリカ人が持つ自尊心は、自分の事は自分で処理するという考えに依存している。
両国の国民の自尊心がそれぞれ異なった態度と結び付けられている。


アメリカと日本で異なる自尊心は、それぞれ社会制度としてデメリットを持っている。アメリカでは法律が国全体の利益になる場合においても、国民の了承を得ることが難しい。日本人の自尊心のデメリットは影に覆われてしまう(地下に潜ってしまう)事で、法律の範囲内で生活しながら、巧妙に要求される事を回避する。また日本人は、アメリカ人は決して賞賛しないある種の暴力や直接行動や私的復讐を賞賛する。

【義理について】

日本人の「恩」は大きく義務と義理に分類される。義理に相当する英語は見当たらない。中国の儒教の中にも、東洋の仏教の中にも無い。人類学者が分析した世界の文化の中で、風変わりな道徳的義務の範疇の中で最も珍しいものの一つである。


義理の父母など契約上の親族からは恩を直接受けていないにも関わらず、義理によって恩を返さなければならない。直接的な恩を受けていないにも関わらず、返済の義務を負うものが義理である。主君に従う義理は家族への義理より重い。


名に対する義理が日本人の行動に大きく影響している。


侮辱に対する復讐は自分の名に対する義理であり道徳的行為である。


日本人にとって自殺は、適切な方法で行われるのであれば汚名をすすぎ死後の評判を回復する手段である。正月になると借金を返せないと理由で名を傷つけるのを恐れ自殺するものが増える。アメリカでは自殺は絶望への自暴自棄的な屈服に過ぎないとされ称賛されたりしない。


競争に対する意識にも名に対する義理の影響が現れる。日本人は競争せず一人でいる場合は作業効率が上がるが、競争させると負ける事が気にかかり効率が低下する。不合格になった子供が自殺するケースもあり、小学校が落第させるようなことは無く、直接的な競争は可能な限り避ける。アメリカでは敗者は勝者と握手するのが礼儀であり、負けたからといって泣く人間を軽蔑する。


客を迎える時には衣服をあらため、一定の礼式を持って迎えねばならない。作業着で客を迎えたりはしないし、客の側も迎える側の準備が整うまで待つ。


田舎では、夜、家族のものが寝静まり娘が床に入った後に、青年が娘を訪れる風習がある。娘は青年の言い寄りを受け入れることもはねつけることもあるが、青年は手ぬぐいで頬被りをして、たとえ拒絶されても翌日恥を感じなくて済むようにする。


日本人にとって最大の罪は不誠実、恩に対する反逆である。殺人者でさえ、事情によっては許してもよい。しかし嘲笑だけは弁解の余地がない。日本人の恒久不変の目標は名誉である。日本人から見れば、自分の属している世界で尊敬されれば、それでもう十分な報いである。

いくつもある日本人にとっての正義

日米の正義の違い

アメリカと日本の正義の違い】

西欧人は善と悪の2つで世界をとらえ、一つの正義の元に行動する。一方日本人はいくつもの正義、忠・孝・義理・仁・人情といった徳を持っている。日本人は異なる正義のもとに行動を変える場合があるが、西欧人にはそれが無いため日本人を理解できない。不信仰者がカトリック信者になるとか、共産主義者保守主義者になるような転向はあるが、一つの正義が変わるだけで複数の正義が同居しているわけではない。
日本人の「世界」の中には「悪の世界」は含まれていない。人生を善の力と悪の力が闘争する舞台とは見なさない。


日本人の複数の正義は、全ての正義を同時に満たすことができない矛盾を生み出す。そのような「義理と人情」「忠と孝」「義理と義務」の葛藤の物語が日本人には好まれる。


「忠」は天皇や大名など権力者に仕える忠誠心である。
「考」は自らを育ててくれた両親を大切にする心で、孝行とよばれる。
「義理」は契約上の親族や恩を受けた他人を大切にする心である。
「仁」は世間や人々の幸福に尽くすものである。法に反する義賊の名誉は仁義である。妻を大切にするという考えも仁の世界に属する。
「人情」は個人的な快楽の世界である。


近代日本人は、すべての「世界」を支配する何かある一つの正義をあげようとする時には、「誠実」を選ぶのが常であった。

【人の強さに関する考え方の違い】

西欧人にとっての強さとは、因襲に反旗をひるがえし、幾多の障害を克服して幸福を獲得する事を強さの証拠であると考える。
日本人にとっての強者とは、個人的幸福を度外視して義務を全うする人間である。性格の強さは反抗することによってではなく、服従する事によって示されると考える。


服従という強さに関連して、自重するという言葉がある。自重という言葉は文字通りには「重々しい自我」という意味であるが、「あなたは自重しなければならない」というのは、「あなたはぬかりなくその事態の中に含まれているあらゆる因子を考慮し、けっして人から非難されたり、成功のチャンスを減少させたりするようなことをしてはならない」という意味である。
「自重して復讐する」というのは、「どうしても完全に復讐しないではおかない」という意味であって、周到に計画をめぐらし、あらゆる要素を考慮の中に入れて復讐を行うという意味である。意図は善かったのだということを理由にして、失敗のアリバイを申し立てることは許されない。

【罪の文化と恥の文化の違い】

日本人は、罪の重大さよりも恥の重大さに重きを置いている。
文化人類学の研究で重要な事は、恥を基調とする文化と、罪を基調とする文化とを区別する事である。


罪の文化は以下のような特徴がある


  • 道徳の絶対的標準を説き、良心の啓発を頼みにする社会
  • 内面的な罪の自覚にもとづいて善行を行う
  • 罪は告白する事で軽減される


恥の文化は以下のような特徴がある

  • 告白は悪い行いが世間に露顕することであり、苦労を増やす事になる
  • 外面的強制力にもとづき善行を行う。恥は他人の批評に対する反応である
  • 各人が自己の行動に対する世評に気を配るという事を意味する

【人情、個人的快楽の価値観について】

義務の返済と徹底した自己放棄を要求する日本の道徳は古典仏教の影響と思われる。しかし快楽を許容しているという点で仏教経典の教えとは反している。快楽は追求され尊重される。肉体的快楽をよいものと受け止める。ピューリタン清教徒)ではない。


アメリカ人は快楽というものはわざわざまなばなければならないものとは思っていない。多くの文化においては、快楽そのものが教えられるという事はない。日本では快楽は義務と同じように学ばれる。しかし学んだ快楽にふける事を禁止する道徳を設ける事で人生を困難なものにしている。彼らは肉体的快楽を芸術のように練磨する。それから快楽の味が十分味わえるようになった時に、それを義務のために犠牲にする。


西欧人は、肉体と精神は各人の生活において覇権を獲得するためにたえず闘っていると考える。
日本人の哲学では肉体の快楽を楽しむ事は罪ではない。そして日本人はこの信条を論理的に推し進めて、世界は善と悪との戦場ではないという結論にまで持って行く。日本人は2通りの魂があると信じているが、それは善と悪ではなく「柔和な」魂(和魂)と「荒々しい」魂(荒魂)とであって、一方が地獄に、他方が天国に行くと定まっているのではない。それぞれ異なった場合に必要であり、善となる。


日本人の最も好む肉体的快楽の一つは温浴である。客人につづき、家庭内の地位の高い者から順に真っ赤になるまで浸かる。
睡眠もまた日本人の愛好する楽しみである。疲れを癒す事と別で考えなければならない。
食事は快楽であり修行である。食を断つ事はどれくらい鍛錬が出来ているかを知る鑑別法である。


日本人の結婚と家族に対する義務に反するが、ロマンチックな恋愛もある。アメリカ人にとって恋愛は結婚する最も立派な理由になるが、日本人は恋愛と結婚を同一視せず、親の選択に従う。


日本男子は余裕があれば情婦を持つが、中国と違い惚れた女を家庭の一員に加える事はしない。もしそうすれば、区別しなければならない二つの領域を混同する事になる。ただし女に子供があり、男がその子供を自分の子供と一緒に育てる事を希望する場合に限って、女を自分の家庭に入れる。この場合女は第2夫人としてではなく、召使いの一人として扱われる。子供は本妻を母と呼び、実の母との間に関係は認められない。日本の制度は、一夫多妻とは異なるものである。
妾を蓄えるだけの余裕があるのは上流階級の人間に限られるが、大抵の男子は一度は芸者や娼婦と遊んだり経験を持っている。そのような遊興はおおっぴらに行われており、妻が夜遊びに出かける夫の身支度をしてやる事もある。
娼婦は遊郭に住んでいる。芸者と遊んだ後でさらに気が向けば娼婦のところに行く人もあるが、娼婦の方が金がかからないので、懐の寂しい人間はこの遊興方で満足し、芸者遊びは断念しなければならない。


日本人はまた、自淫的享楽に対してもあまりやかましく言わない。この目的のために用いるさまざまの道具を工夫した国民はほかにない。
手淫を非難する西欧人の強硬な態度は、アメリカよりもヨーロッパの大部分の国々の方がさらに強硬であるが、成人する以前に意識の中に深く刻みつけられる。西欧人は幼少時代に母から厳重な監視を受け、罪を犯せば体罰を加える事もあった。日本の幼児や少年はこういう経験を持たない。


酒に酔う事も許しうる「人情」である。

歪んだ宗教観と日本人にとっての修行

アメリカは特別な修行をするような事はしない。目的があるなら、その実現のために自らの意思で訓練を行う。日本は試験を受ける青年も貴族も自己訓練を行う。


日本人にとっての修業は「落ち着いた、事に当たって取り乱さない心」を養う訓練である。インドのヨーガ(仏教の修業)に由来し、同一の文句を何万回も繰り返すことや、ある一定の象徴に注意を集中することに力点が置かれている。


インドのヨーガは極端な禁欲苦行を行い、輪廻からの解脱を目指す。障害となるは人間の欲望である。欲望を餓死させる事で聖者となり、霊性・神仏と一体となることができる。このような哲学は日本には見られない。日本は一大仏教国であるにもかかわらず、輪廻と涅槃の思想が国民の仏教的信仰の一部分となったことはない。


どんな人間でも、最も身分が低い農民でさえ、死ねば「仏さま」という言葉づかいをする仏教国は他にない。なにをしてもしなくても仏になるものならば、なにもわざわざ一生肉体を苦しめて、絶対的停止の目標に到達しようと努力する必要はない。日本人は仏教の死後の世界における因果応報の思想を棄てたのだ。


世界中どこでも神秘主義的修行法の行われてきた所では(未開民族、マホメット教の修行僧、インドの瑜伽(ヨーガ)行者、中世キリスト教徒など)、修行者たちは、その信仰が異なっていても、ほとんどが同じように「神と一つ」になると言い、「この世のものにならぬ」経験をすると言う。日本人も神秘主義的修行法を行うが、神秘主義はもたない。日本人は恍惚状態におちいらないという意味ではなく、それを入神の状態とは言わず、「一点集中」の態度を養うと言う。この方法によって「六官」が異常に鋭敏な状態に達するという。訓練によって心の中に宿る第六官だけでなく味覚・触覚・視覚・嗅覚・聴覚も鋭敏にする。こういうことは、超感覚的経験を重んずる宗教として異例である。


日本人の自己訓練の達人が到達する心境は「無我」と呼ばれ、意志と行動との間に「髪の毛一筋ほどの隙間もない」ときの体験のことを指す。この時、行為は行為者が心の中に描いた形と寸分違わぬ形で実現される。


このように、日本の善悪判断に対して、仏教の影響は強く見えない。

日本の幼児教育-なぜ矛盾は生まれるのか

【乳児の教育の対比】

日米の幼児教育は以下のような違いがある


アメリカの幼児教育

  • 一定の時間を定めて授乳し、一定の時間に寝かしつける
  • むずかっても嬰児は時間の来るまで待っていなければならない。母親が外出する時には、嬰児は家に留まっていなければならない
  • 指を口にくわえたり、そのほかの身体の部分に触れたりすることを禁止するために、嬰児の手を叩く
  • まだほかの食べ物よりも乳が恋しい時に乳離れをさせられる。身体によい一定の食べ物がきめられていて、それを食べなければならない
  • きめられたとおりのことをしなければ罰せられる

日本の幼児教育

  • 嬰児は、いつでも時を選ばず、乳を飲むために、もしくはおもちゃにして楽しむために、乳房をふくむことを許される
  • 年上の子供がおんぶする。彼らは遊ぶ時にも赤ん坊をおんぶしたままで、ベースに向かってかけ出したり、石蹴りすることさえある
  • 帯で負う日本の習慣は、ショールや袋の中に入れて持ち運びする習慣のように完全な受動性を養わない。赤ん坊は、自分でいろいろ骨折って楽な姿勢をとるようにする。そして間もなく、まるで肩に縛り付けた包みのようにではなく、非常に巧みに、負う人の背中に乗るすべを覚えこむ
  • おしめを頻繁に取り替える習慣がない。不快な思いから早く解放されるために、用を足すことを早めに教え込む

【生活曲線-人生における自由度の違い】

日本の生活曲線はアメリカの生活曲線のちょうど逆になっている。それは大きな底の浅いU字型曲線であって、赤ん坊と老人のときに最大の自由と我儘とが許されている「自由の領域」である。 アメリカでは壮年期に個人の選択の自由を増大させるのが肝要であると考える。日本人は個人に加えられる束縛を最大限に達せしめることが必要であると考えている。

【家を継ぐための子供と親の意識】

子供に対して寛容な国民は子供を欲しがる傾向が強いが、日本人が子供を欲しがる理由はそれだけではない。日本では家の血統を絶やすようなことになれば人生の失敗者となる。父親が息子に家督を譲り渡すことができなければ、管理者の役目を務めてきたことは無駄になってしまう。女もまた子供を欲しがるが、それも情緒的満足を得るためばかりでなく、女は母親となることによってはじめて、地位を獲得することができる。


日本の女たちは多産者であることを期待されており、日本人の母親は早く子供を産み始める。そして十九歳の女は他のどの年齢の女よりも余計に子供を産む。西欧より多いことはもちろん、多産といわれる東欧の国々よりも出生率が高い。


十四歳から十八歳にかけての娘の髪の結い方は、日本では一番念入りなものである。彼女たちは木綿物の代わりに絹物を着ることを許される年齢、すなわち、容色を引き立てる着物を着せるためにあらゆる努力が払われる年齢に到達する。


男の子は女の子に接する態度において「内気」である事が望ましいとされた。田舎では、この点についてさんざんにからかう空気があって、それが少年を「内気」にしている場合が多い。
昔は、そしてこの「菊と刀」という本が出版された頃であっても、日本の辺鄙(へんぴ)な村では、多くの娘が、時には大多数の娘が、嫁入り前に妊娠した。このような結婚前の経験は、人生の重大な仕事の部類には入らない「自由な領域」であった。両親はこういう事件を眼中におかずに、縁談を取り決めるものとされた。

【教育からくる日本人の善悪判断と矛盾】

日本人の性格の矛盾は子供のしつけ方を見れば理解できる。
日本人は幼児期の特権と気楽さの経験から、その後にさまざまな訓練を受けても、「恥を知らなかった」ころの気楽な生活を記憶する。
幼児期の経験は、すべての人間の内に「仏種」(仏となる可能性)があるとか、人間は誰でも死ぬと同時に"カミ"(神)になるというような、極端な解釈を成り立たせる。それは自分の言いぶんをどこまでも主張する傾向と、ある種の自信を与える。それはどんな事にでも、たとえそれが能力を遥かに越える難事業の場合でも、進んでぶつかってゆく態度の根底となっている。それはまた自国の政府に対してさえ反対の立場を取って闘い、自殺によって自己の立場のあかしを立てることを辞さない態度の根底となっている。時には集団的誇大妄想狂におちいる可能性を与える。


やがて成長して「恥を知る」責任が課せられるようになり、それはもし責任を果たさなければ家族からのけものされるというしくみで強制される。
「世間の人びと」に笑われ、見捨てられぞと言い聞かされ、子供は自分の自由が奪われることを受け容れなければならないと考えるようになる素地を作る。仲間はずれにされることは、暴力よりもなお恐ろしいことである。


日本人は「忠」「孝」「義理」のために死ぬとしても、それは自らの欲によるものであり、自己犠牲とは認識しない。

日本を変えるために

日本降伏当時の重大問題は、どのような占領を行うべきか、ということであった。
アメリカで講和条約を厳格にすべきか、寛大にすべきかが繰り返し議論された。目的は厳格か寛大かではなく、古い侵略的な型を打破し、あたらしい目標を立てるのにちょうど適した量の厳格さを用いることである。


これは結論から言えば、日本はアメリカが直接統治するようにはならず、日本人が統治し、アメリカが指示を出すという間接統治の形となった。日本人はアメリカ人とは、言語も、習慣も、態度も異なっている。日本国政府の機構を利用することによって、時間と、人員と、財力とが節約できる、というのが理由の一つである。


また、日本人は攻撃を受けた際、そこに侮辱が含まれるかどうかによって行動を変える。そのため、自尊心を傷つけることが無いように政策が作られた。


日本人は、ある一定の行動方針を取って目標を達成することができなかった場合には、「誤り」を犯したというふうに考える。「あれは失敗に終わった」と言い、それから後は、別な方向にその努力を傾ける。ある行動が失敗に終われば、それを敗れた主張として棄て去る。いつまでも執拗に敗れた主張を固守するような性質にはできていない。


西欧人から見れば主義の変更としか思われないため、日本人のこのような変化に疑念を抱く。しかしそれは、個人的関係においてであれ、国際的関係においてであれ、日本人の処世術に必要な一要素となっている。


敗戦時は、日本人は進んで戦争を放棄する憲法の立案に取りかかった。戦争をするという方法は失敗に終わった。このようにして、日本人から怨みの記録を消し去ったのである。


日本人は私利や不正に対して反抗はするが、決して革命家にはならない。明治時代に行ったように、制度そのものには少しも非難を浴びせずに、最も徹底した変革を実現することができる。明治維新という革命は「復古」と名付けられた。


幣原首相の言葉で、「新日本の政府は、国民の相違を尊重する民主主義的な形態を取る。(中略)わが国においては古来、天皇は国民の意思をその御心としてこられた。(中略)民主的政治は、まさしくこの精神の顕現と考えることができる」というものにそれを見ることができる。戦後、民主主義を目指すという方向転換は、古来への回帰と見なされた。


アメリカにも他の国にもできないことは、命令によって自由な、民主的な日本を造り出すことである。
法律の力によって彼らに、アメリカ人には慣れっこになっている遠慮なく打ち解けて人と接する態度、どうしても自由独立を要求せずにはいられない気持ち、各自それぞれもっている、自分で自分の友達、自分の職業、自分の住む家、自分の引き受ける義務を選択する情熱を採用させることはできない。


このような理由で、日本は民主主義を押し付けられたのではなく、自ら民主主義に向かうように方向付けがなされたのである。

まとめ‐「菊と刀」と今日の日本

菊と刀を読む事で、今に通じる部分と、教育で教えられている内容とは異なる部分がある事がわかる。


矛盾した民族、ということは現代でも比較的受け入れられやすい日本人の特徴ではないだろうか。
恩を大切にする民族というところも多くの人は同意するだろうと思う。もっとも戦前のそれとは重要さは異なっているだろうが。


階級社会は今でも体育会系では色濃く残っているだろう。年功序列の廃止やパワハラなどの規定によりだいぶ弱くなったとはいえ、マナーという名で階級を意識する文化は根強く残っている。役人たちに対する忖度もそうであるといえるかもしれない。


日本人にとってのあたりまえが、実は当たり前ではない、というところも見受けられる。


例えば「死ねば仏様」は仏教の教えと信じているけれど、修行をすることで仏に近づくのが本来の仏教であるということは知らない人も多いことだろう。写経も修行の一つではあるけれども、仏様と呼ばれる人々の中には一度も写経をしていない人も含まれているはずだ。


子供の育て方にもそうした驚きがあるだろう。子供が泣いたら乳を与えることは日本人にとっては当たり前のことであるが、アメリカでは当たり前ではないのだ。


そして今の日本や教育で教えられていることと、明確に異なる点も存在する。


一番大きな違いは「アメリカは日本人を民主主義に洗脳していない」という点だろう。教育では、日本人はアメリカから民主主義を与えられた事になっている。しかし菊と刀を読む限りでは、軍国主義が失敗したため日本人が民主主義を選択する、という事が期待され、アメリカから押し付けられたという事ではなさそうだ。この事は、平然と公約を破り民意を無視する政治家が現れる事や、民主主義の理念、つまり社会契約論や市民政府論の理念を口にする国民がほとんどいない事、先進国一高い供託金が必要で、誰もが政治家を目指せるわけではない事などとマッチする。


また、結婚・恋愛観も劇的に違う。現代では結婚は恋愛の延長にあるものと考えられており、場合によっては恋愛によって結婚に至らないものは能力が低いものと評価されさえする。しかしほんの70年ほど前では結婚とは親が決めるものであり、家を存続させるために行うものであった。その時点では恋愛というものは社会的に重要ではなかったし、求められもしなかったのである。したがって、仮に恋愛の能力が低いとしても、それは当人の努力のみに依存するものではおそらくないだろう。


そして筆者として大きな違いであり、社会問題を生み出しているだろうと考えるのは、子供を持つ年齢である。戦時中まで、日本の出生率は欧米より高かったのだ。現代では平均的な初産年齢は30歳に近づいている。現在は少子高齢化であり、老後を誰が支えるのかという問題や、今後の経済力、労働力の確保という社会問題を引き起こしている。十代の少女が妊娠すれば無責任だと非難する。きちんと育てられないとののしる。「きちんと育てるとは何か? 金がありさえすれば責任があるといえるのか」という少女の声に答えるものはいない。70年前まで当たり前のことだったにも関わらず、だ。


確かなことは、戦前と今の間にあるこれらの変化が起きた事柄について、戦時中にすでにアメリカで分析が行われていた、ということである。日本人が忘れたことは、人為的に忘れさせられた可能性が否定できない。


菊と刀」は出版された。アメリカでなくてもこの情報は手に入れることができる。仮に何者かが日本人に干渉しようと思えば、これらの日本人の特性に関する情報をもとに実行することが可能なのである。そのことに対して情報を持たないということは無防備であるということを意味する。少しでも多くの人に、日本人自身を見つめなおしてもらえることを願って、今回の紹介を終わりにしたい。


ユダヤ陰謀論とつなげるなら、ロックフェラー回顧録に「人口抑制」の問題について日本を組み入れることが不可欠であるという言葉が含まれている。これがそのまま直結するとは断言できないが、少なくとも、世界に大きな影響を与える資産家が日本の人口抑制を考えていたらしいということだけ付け加えておく。

CIA文書にアクセスする方法

さまざまな国において、防衛のために情報を収集し、分析し、あるいは発信する情報機関が存在する。アメリカはCIA、イギリスはMI6やMI5、ロシアならKGBイスラエルならモサドといった具合である。


このうち民主主義国家に属する情報機関は、国民の「知る権利」を確保するためという理由で、数十年たった古い情報などに関して公開するよう法で定められており、情報機関の情報にもアクセスすることができる。


CIAもまた国民の知る権利の法に従う。情報自由法Freedom of Information Act (FOIA)という法に基づき公開されている。また当初はオフラインでのアクセスに限られていたが、非営利組織MuckRockの働きかけにより、電子文書情報公開法に基づいてオンラインによるアクセスが可能になった。これはアメリカ国民でなくてもアクセス可能である。


戦後の日本の歴史に疑問を持つ場合、アメリカが日本に対してどの様な考えを持っていたかを知る事は重要であるだろう。そのため、実際に文書について解説する。


1.CIAのサイトにアクセスし、LIBRARYメニューよりFOIAの記述があるリンクをクリック

CIAサイトトップ

2.検索ワードを入力。出てきたリンクをクリック

検索ページ

3. ドキュメントの詳細が出るので、PDFへのリンクをクリック

検索結果

4.PDFでスキャンされた元機密資料がダウンロードできる

資料の例

当然だが英語である。また検索が必要な以上、ある程度調べたい事柄に対する事前知識が必要である。


これまで、例えば「日本テレビとCIA」などの書籍のように、CIAの文書を根拠とする主張の本はいくつか出版されているが、その確認のために現地に行く事が出来る人間は限られていた。そのため本の内容については、「研究者がまとめたものだから正しいに違いない」と頭から信じるか、あるいは逆に「そんなものは都市伝説である」というように斬って捨てるしかなかった。しかし現在では、これらの書籍に対して検証が可能になったのである。まずはそれらの書籍が資料として利用しているものを検索するとよいだろう。


こうした機会を得られる民主主義という思想、技術、それらを誠実に運用できるアメリカという国に感謝しながら、これらの文書に触れてみてはいかがだろうか。私は当然これらの文書を調査するつもりだが、同じように調査を志す人が現れれば幸いである。ネットには無料の翻訳サービスもあるのだから。

新世界秩序:アメリカ、ソビエト、EU、そして日本

陰謀論として時々出てくる言葉に、「新世界秩序(NWO, New world order)」というものがある。陰謀論者によれば、それは世界から国境を取り除いて一つの多民族国家を作り、一部の資本家たちが他の人類を家畜として支配するという世界を意味するらしい。


wikiで調べると陰謀論の他に、国際政治学の用語としてポスト冷戦体制の国際秩序を指す、という説明が出てくる。ではこの「新世界秩序」という言葉、国際政治学の用語としてはどのような意味を持っているのか? そしてそれは陰謀論として使われる意味と比較して、どのくらい違うものなのだろうか?

ゴルバチョフ回想録より

ソ連アメリカの冷戦終結に影響を与えたソ連側の重要人物はゴルバチョフ大統領である。ゴルバチョフは自伝を書いており、このゴルバチョフ回想録(下巻)に新世界秩序の説明が書かれている。それはまとめると、


・他国への武力行使の完全排除
・国家間関係を非イデオロギー化し、人類の普遍的価値を優先させる


というもの。
陰謀論と比較すると、「人類の普遍的価値をイデオロギーより優先させる」という点で、国境を取り除いて一つの多民族国家を目指す事につながりそうとも取れる。


日本国憲法との共通点

さて、この「他国への武力行使の完全排除」「人類の普遍的価値を優先」という言葉に聞き覚えは無いだろうか? 日本国憲法には、以下のような文言が含まれている。


武力行使の排除(憲法9条)
日本国憲法は人類普遍の原理に基づくもの(憲法前文)


これはゴルバチョフ回想録に書かれた新世界秩序の内容に酷似している。陰謀論以外の「新世界秩序」という言葉の意味として「ポスト冷戦体制の国際秩序を指す」とあるが、第二次世界大戦当時、つまり冷戦の開始以前から既に存在する思想という可能性がある。

アメリカ大統領のスピーチに出てくる新世界秩序

では冷戦のもう片側、アメリカではどうだろうか?
湾岸戦争当時の大統領、ジョージ・H・W・ブッシュの演説に新世界秩序の名が登場するものがある。
1991年1月29日の演説で、湾岸戦争は「新世界秩序の長年の約束を果たすことができる機会である(The world can therefore seize this opportunity to fulfill the long-held promise of a new world order.)」と表現している。
長年の約束という言葉から、新世界秩序は昔から存在していたと考えられる。この事は、日本国憲法が既にゴルバチョフ回想録の内容を内包している事と一致する。


この演説の内容はいくつかのサイトで全文が書き起こされている。例えば、カリフォルニア大学のAmerican Presidency Projectなどがある。原文を確認したい方はご覧いただきたい。
https://www.presidency.ucsb.edu/documents/address-before-joint-session-the-congress-the-state-the-union-1


EUの立役者、ジャック・アタリの新世界秩序

ジャック・アタリ
ジャック・アタリ
哲学者であり経済学者。仏大統領補佐を務める

そのものズバリ「新世界秩序」という題名(邦題)の本を書いている人物がいる。ジャック・アタリという人物だ。EUの影の立役者と言われ、ミッテラン大統領の補佐官、サルコジ、オランド仏大統領のアドバイザーを務め、マクロン大統領を政治の道に進ませた人物とされる(EU成立にどのような影響を与えたかという情報はすぐには見つからなかった)。
その本から新世界秩序に関する内容を引用しよう。


「帝国にせよ、市場にせよ、今日の世界全体が抱えている数多くの重大な問題を解決する能力を持たないのである。したがって今後、新たな世界秩序が求められることにならざるを得ないだろう。この新たな世界秩序を統治するシステムは連邦制に近い形態を持つものになる可能性が高いと思われる。欧州連合(EU)などは、おそらくその実験の一つと見なすことができる。この連邦的な統治システムに求められるのは、市民の権利や文化の保護については各国政府に任せ、自らは地球全体の利益を図り、各国がその国民を、人類の一員として尊重しているかどうか監視することを使命とすることである。」


ここから見えるのは
・連邦制である事から、統治システムの1つの主権の下に複数の国が結合した状態になる
・地球全体の利益を図る統治システムである
・何らかの監視が行われる
EUが実験場である
ということである。

新世界秩序とは

分割された世界

まとめると、新世界秩序は世界を1つの思想の下に統一しようとしている(表現は国家間の非イデオロギー化/人類普遍の価値を優先/地球全体の利益を図る統治システムなどの揺らぎはあるが)と言えそうだ。これは陰謀論者が口にする、世界から国境を取り除いて一つの多民族国家を作る、という事に近いように見える。


一方、陰謀論者が口にする一部の資本家たちが他の人類を家畜として支配するという方向性は見られなかった。もっともジャック・アタリの著書によれば、「人類の一員として尊重しているかどうか監視する」ようなので、その監視の内容を拡大解釈すれば支配されるように振る舞うのかもしれない。しかし現時点では、何らかの事実が判明しない限り、この部分は陰謀論者の妄想ではないかと思われる。


しかしながら、ブッシュ大統領の「長年の約束」という言葉、そして日本国憲法にも「人類普遍の原理に基づく」という記述がある事を考えると、「ポスト冷戦体制の国際秩序」ではないのではないかという疑問が出てくる。


結局のところ、新世界秩序は存在し、それは先進各国の大統領やその側近による動きにもかかわらず、世界を1つにするという事以外、その全貌は知られていないという事になるだろう。

現代の動き

世界のネットワーク

EUにおいては、移民・難民の受け入れが盛んに行われている。一方で暴動や元々の国民による反発なども発生している。そのような反発の行く先に、brexitがある。EU内の国の国民が難民の急造にNoを突きつけた事を意味する。これは同時に、国境のない世界を目指すことを権力者に近い者たちが国民の意思を無視して推し進めた可能性が高い事もまた意味する。
アメリカでは反グローバリズムトランプ大統領が誕生した。一方日本の安倍首相は「永住権取得までの在留期間を世界最短とする」と移民政策に積極的だ。こうした動きは新世界秩序を軸に考えると、国境のない世界を作る意思に与する者か、それとも反発する者かという視点で見ると、その行動がわかるようになるだろう。


日本国憲法に新世界秩序思想の影響があるとすれば、戦後の統治にそれが色濃く反映されていると予想される。日本の戦後がどのように作られたのかという事について、調査が進み次第紹介する。